認知教導の背景

この記事は約8分で読めます。
認知教導の背景

 

これからの時代においては、つながりを活用する、広げる、自らがハブになる、といった「開いた世界に対する所作の訓練、試験」の重要性がいっそう高まるのは確定的だ。

もっとも、そのような観点は、ふるいパラダイムでは訓練とも試験とも見なされないと思う。実践とか、スタートアップとか言われるだろうそれらは、個人的感覚だと「未知に対する試行錯誤」「新規企画の実験」という感じになる。

違いは何かというと、実践やスタートアップは既にビジネスやプロジェクトの形をもったものだけど、訓練というのはそれらの水面下にある動き(あるいは思考であったり、無意識の所作だったりするはずだ)という不定形な部分が大きなウエイトを占める点である。(だから訓練の指導者や、効果測定たる試験における採点基準の重要性は大きい)

ザックリ言えば、訓練と試行錯誤を「ランダム性」を前提として、「感情」を軸に新たにつなぎ直すことが必要になると、私は考える。

「ランダム性前提」というのは、世界の変化の速さと複雑性がどんどん露わになる昨今の状況を受けての指針だ。(なお、個人の処理能力を越えて「ランダムとして認識される」領域と、純粋にヒトの認知の枠組みを越えたランダム性の領域とがあるが、どちらにせよ個人や共同体として取るべきプロセスは「ランダム性前提で血を流すことを必要経費として受容すること」であることに違いはない。つまり安易なプラトン性に落ちない丁寧な処理および環境設定に努める、ということになる。このあたりは書籍「ブラックスワン」参照のこと)

今後も加速する情報化やグローバル化により、世界のランダム性が露わになるのと同時に、個々が対処を構築する手触りを感じることが難しくなる。

なぜなら、どこかで誰かがつくったエレガントなソリューション、それが地理や時の制限を受けず手軽に提示、供給されるようになるからだ。「ソリューションはつくるより探すのが普通」という感覚はますます一般的になるだろう、

たとえば、少し変わった菓子を食べたいとき、手作りを検討するより、まず取り寄せを検索するようなものだ。ネット時代以前では、目の届く範囲になければ、自分でつくるか、方々に声をかけるかであった。今では、そのどちらも、純粋に趣味の範疇でなされることが多い(そしてそれはそれで良いのである)。

注意すべきは、次々に似たような選択肢が示される世界においては「既製品の検索」という行動性向が無意識のうちに惰性で続けられる傾向になりがちということだ。(本当の意味で、共同体がどの程度多様性を許容するかが、画一的な選択肢の乱立にしないための前提条件になる。パッと見のヒキと軽薄な経済効率が市場原理として支配する共同体はなかなかに地獄だ。市場原理の脱構築が必要だが、指針そのものは大して難しくない→別稿)

つくることよりも、探すことに時間や資金といったリソースを注ぐ。そして、大抵の場合、既製品を探す結果、個人がゼロから試行錯誤したものより安定して高い品質のものが効率的に手に入ることになる。そのこと自体は素晴らしいことであり、共同体の価値というべきものだ。

しかし、言うまでもなく、既製品の検索と、ハンドメイドは質的に全く違う体験である。

問題は、惰性が無意識化する点に尽きる。処理能力を大きく越えるオーダーの選択肢の数が、結果として、「既製品の検索」から「ハンドメイド」へと移行するタイミングが見失わさせるという構造にある。

節約した労力と時間で、自分自身は何をしたいのか、ハンドメイドの文脈で見出すと何が残るのか。そうした本質的な自問自答は常に重要だ。極論、「自分自身」と「設定した目的」が合致しないままでは、人生そのものが代用的なものに終わってしまいかねない。既製品探しの堂々巡りのワナは、けっこう深刻である。

こうした状況においては、「未知を手探りするプロセスを踏むことは、それ自体が重要度の高い鍛錬になる」というのが、私の考えである。

別に最初から大上段に「共同体にとっての未知」に取り組む必要はない(可能ならやれる範囲でやれば良いし、系が回っているなら、無理せずとも各人の報酬系のもと拡張していく。このときに注目すべきは鍛錬の本質たる「報酬系」「過負荷」「意志力」だ。これらが整合することで「個人にとっての未知」の探求は自然と「共同体にとっての未知」へと繋がっていくものだ→別稿)

ハンドメイドの体感や感覚が衰えることは、共同体の課題でもあり、個人にとっての切実な問題でもある。

自身の創造性のコアを見失うだけでなく、世界に対する自己効用感が失われることにもつながり、生産性の低下のみならず、鬱など心身の健康にも大きく関係するところだからである。(アーティスト気質と社会的知性のせめぎ合いとかいう段階の苦悩は、この際、置いておいて良い)

このあたり、「人それぞれ」で思考停止したり、強引なポジショントーク(だから一緒に手作りでお菓子作りませんか?的な無邪気なものから、行き過ぎた文明や財産を棄てて、ともに祈りましょう的な笑うしかないものまで)に持っていったりする例が目につくが、より構造的かつ地に足ついたアプローチとして、自分自身の感情に注目することを提案したい。

「既製品の検索ループ」から脱却するカギは「感情を軸にする」というプロセスにある。自分を見つめるにあたって、感情というのは非常に有用なツールになる。

毎瞬の感情と、感情精製のブラックボックスたる全脳は、確信をもって「既製品ではない」としやすいからだ(完全に疑問の余地がないかは、また別の探求になるが、初めの一歩としてはこれで良い)。

あらゆるハンドメイドや着想の起点、温める基本単位は「個人」であるから、個人の内発的欲求を真摯に掘り下げるプロセスを大切にすれば良い(というか「自我の真摯な掘り下げ」と「ハンドメイドのアート」はそもそも不可分である)。

逆に、共同体の利益のために個人が抑圧されるべきだという主張には警戒すべきだ(主張そのものが受け手にとって抑圧に感じること、提供者にとってのポジショントークであること、どちらも完全排除することなどできないし必要もない。自分自身が必要とする自然な感覚に沿うかどうかだ。上品に依存心を促す一方で、自立心の名のもと突き放すようなテクニックは無数にある。)。

何にせよ、自分自身の目的が見えてないのに何が役立ちそうだと判断するのか?「あなたの為」と言ってプッシュしてくる相手の思考アルゴリズムとエゴは何だろうか(エゴそのものは否定すべきものではない。自分のエゴはコントロールして強めたり消せたりできると強い。フェアに扱えるかどうかがテーマ)。

「目的が言語化できないこと」は仕方ないが、絞り込みのプロセスすら飛ばして提供者都合のクロージングに安易に乗ることは、自分のエゴを粗末に扱うことに他ならない。

指針としては、自分自身の感情を見つめることを「既製品の検索」に落とさないことだ。

自分自身が本音で大切にしたいつながり、共同体、それらに対し自らが果たしたい機能は何か。そうした「自分のエゴの幹」にフォーカスするために、必要な剪定を行うこと(幹の成長やよい果実の収穫という「目的」に沿わない枝を手放す)や、すごく引いて俯瞰するためにエゴを消してみる。それが自らのエゴに関する調和のとれたコントロールなのだと、私は考える。

「トータルバランスを意識して毎旬の決断をしよう」ということだが、雲をつかむような話に聞こえるかも知れない。

フォーカスするための一つの補助線として、「前提としてはツケ回しはしない」という「決め」をあげることができる。

他者にツケ回しはせず、淡々と自分自身にフォーカスする。

正しい課題の分離を淡々と仕分けする。
「淡々と」の感覚は重要なカギだ。必要に応じて信頼できるツールや他者の助けを求めるのも悪くない。

文学的な表現になるが、「既製品の検索ループ」に落ちず、もちろん「エゴの加熱ループ」にもはまらず、外部の既製品や自らのエゴを、調和のとれたセッティングのもとなると決めた自分の血肉にしていく、そういう決断をここぞという時だけでなく、毎瞬重ねていく道を往くことは絵空事ではない。

この文学的な理念は、意識状態のコントロールの範疇であり、合目的なアルゴリズムを含めたセッティング、環境設定に落とし込むことができる。

目的に整合的なアルゴリズム、行動計画、実践とフィードバックについて、「意識状態」という点と、より広く「リソース」という面からアプローチしていく技術。

さらに、目的設定と更新、認知の及ばない範囲への陰陽両面からの備えをトップに置くという整合的な制約。

結果として、調和した知性が機能し、そこから必要な心身のあり方、日々の所作へと帰結し、真の謙虚さと自信の裏づけが、想定外だった事象すら飛躍の栄養にする。

整合のためには、感情というブラックボックスを飼いならすことから始めれば良い。

個人がランダム性を活かすには、感情という尺度が役立つ。まず楽しむことであり、快楽原則にどの程度則っているかを評価することだ。(もともと感情というものは生物学的にはそのためのデザインと見なせる)

そして、実際に手触りのあるところまで遡って検討するというのは有効だ。(個人という概念は「共同体への参入」から始まるという側面もある。個人か共同体か、タマゴが先かニワトリが先かのような非生産的な議論とされがちだが、個人と共同体の相互作用に関しては、「個人の発達を基準とした共同体設定」というかたちで整合可能である→別稿)

たとえば、高校や学部のレベルでは普通な「結果は見えているのにレポート提出が紐つけられたお仕着せの実験」をツマラナイと思ってた人も、学童の頃に遡れば、たまにある実験の時間を楽しみにしていたことを思い出すかも知れない。

とりわけ、ヒトの発達段階においては、「実践やスタートアップにつながる訓練や試験」がふんだんに存在し、かつそれが意図せず目につく環境であることが、変化と差分が拡大していく世界に過ごす上で効いてくると、私は確信する。

タイトルとURLをコピーしました