●第0話
(発端になった、ある休日のお話)
ちま「主人〜!もうわけがわからないよ!」
主人「なに、どうしたの?(携帯から顔を上げる)」
ちま「次女が言うことを聞かないんだよー」
主人「それだけじゃわからないから、も少し言葉足してくれ……」
・・・前提となる背景・・・
人物紹介
ちま母 当時6歳、3歳、0歳の三人姉妹の母親。「必須ではないけど、あると便利なもの」をちまちまと作る、ペンシルパズルを解く、テーブルゲームをするのが好きな30代。
主人 日常のほとんどの面でとてもゆるいが、なにかあると極まった理屈っぽさを発揮する。趣味は読書と考え事であると断言するゲーム好きなアラフォー。呼吸や食事に相当する代謝の一環、らしい。
(状況背景のあらまし)
長女のときは、2歳のイヤイヤ期も3歳の反抗期もしっかりありました。
当時は当時でいっぱいいっぱいだったと思うのですが、「こどもちゃれんじ」や「Z会」などの教材にあるような
「子どものささいな変化を観察して、言うことをじっくり聞いてあげましょう」
とか
「AとBのどちらでもいいよという声かけが有効です」
という、ざっくりしたアドバイスでじゅうぶん乗り切れたのでした。
母親としての自信をつけるとともに、成長する子どもたちへの新たな対応を試行錯誤する毎日、だったのですが……
そんなささやかな成長の前に立ちはだかったのは次女。長女の時の成功パターンが通用しなかったのです。
たとえば、食事を目の前に出した時のこと。
「ごはんいらないの?」「いる」(食べない)
「片付けていい?」「いや」(でも食べない)
「片付けるよ!」「やだ!食べる!」(やっぱり食べない)
すんなりいく日はありませんでした。
じっくり聞いてあげようと、仕切り直してつとめて冷静に「今なにを考えているか教えて」と聞いても、これといった反応は出てきません。一方で、こちらが何か提案に入ると、「やだ!」「だめ!」「いるの!」など、それはそれはハッキリとした主張が即座に出てくるのでした。
まあこれは、むしろ子どもらしいエピソード。ほかのママさんとの会話でもむしろ「あるある」事例です。思えば、長女が素直でわかりやすい子だっただけなのかもしれません。
子どもによって個性の違いがあるのは当然です。素直な長女を基準に反抗期、イヤイヤ期を想定していた面がなかったとはいえません。
とくに困ってしまったのは、くもんをさせる時です。
くもんプリント「するする詐欺」
ちま「くもん始めるよー」
次女「あ、ちょっと待って待って」
片付けるときの「やるやる詐欺」
ちま「あ、もうこんな時間。幼稚園行かなきゃ、ひとまずくもん終わりね」
次女「あーん、やるんだったのにー!!」
と泣き喚くのです。
これは子供らしいエピソードでもあり、長女のときにも通ってきた道です。でも、いかんせんその頻度の高さと脈絡のなさにこちらも疲弊するばかり。
そして、特に困った・・・というか決定的に不可解なエピソードがありました。
次女「長女だけおかしもらってずるい!」
ちま「次女ちゃんにお菓子あげるね」
(ちま母が次女にお菓子あげる)
次女「あ、長女ちゃんにあげよっかな〜」
ちま「!?」
これは、もうまったくわけがわかりませんでした。
なんで? 長女がおかしもらったのが、うらやましくてお菓子を要求したんじゃないの?
それを頼まれもせずすぐにあげちゃうの? 次女はおかし嫌いじゃないし、むしろ好きでしょ? 特別気前がいい性格なの? ならなんでもらえないことを気に掛けるの?
(内心「シェアの心は大切にしたい」という思いもあるので、あげる気持ちと行動そのものは否定したくないが、どうしよう?)
明らかに個性が違う……
次女を見守り観察し、考えました。
くもんプリントは毎日の日課です。次女に能力的なつまづきがあるわけでもありません。手を付け始めてさえしまえば、かなり早く終わらせてしまうのです。
くもん教室も先生も大好きな様子で、後には英語教材もじぶんの意思で追加したくらいです。
にもかかわらず、毎日の強硬な反発と主張。きちんと言い聞かせれば、慣れてペースをつかめてきたら、自然消滅するものだろうと思っていました。
でも、むしろエスカレートする一方だったのです。
・・・エピソード共有終了・・・
主人「なるほど。それはちまが困るのもわかる」
ちま「なんだよそれ!」
主人「反抗されるのは、ちまが『◯◯しなさい』というときじゃない?」
ちま「ん、まあそうだけど」
主人「次は時間で区切って疑問形にしてごらん。◯時までにご飯食べ終わる? とか」
ちま「時間で疑問形、というのはやってなかった。やってみるよ」
主人「あと、お菓子進呈のエピソードは、お菓子を羨む発言とは裏腹に、お菓子そのものが欲しいのではなかったようだね。動機は別にあるわけだ。次女はお世話好きでもあるし、基本的には自分の物をシェアしたがる性質があるんだろう。これは社会性につながるヒトの本能のあらわれであって、悪いことじゃない」
ちま「じゃあ、そこはあまり気にしなくていいんだね」
主人「むしろ気をつけるのは次女でなく大人側かな。やっちゃいけないのは、『他の人にあげるんだったら、次女には必要ないよね。あげません!』といった対応だね」
ちま「うわー、やってたかもー」
主人「まあ、ちまはヒステリックにする感じではないし、これから意識すれば大丈夫だと思うよ」
・・・30分後・・・
ちま「きいてきいて! 次女がすんなりくもん始めたよ!」
主人「ああ、それはよかった」
ちま「25分からスタートね。と言って、5、4、3、2、とカウントダウンしたら、『ちょっと待って』がなくて、スムーズに始められたよ」
主人「そうなんだ。役に立ててよかったよ」
●(その1)整合性と構造 形式と意味の整合
ちま「ところで、君はいつも現場を見ていないのに、まるで見ていたかのようなアドバイスをするよね」
主人「ま、そうだね」
ちま「子どものことだけじゃなく、会ったこともない話題にポッと出ただけの人についても、ほとんど的を外した感じがない。どうやってるの?」
主人「うーん。整合性に焦点合わせて、予測して、反応のフィードバックを取って、組み立てた構造をもとに話すようにしているかな」
ちま「ただの山勘じゃあないってことね。
よくわからない。整合性ってどういうこと?」
主人「矛盾なく辻褄が合うというのが、整合性だ。さまざまな現象から、矛盾なく辻褄が合うような説明原理を紐解くことで、根本原理『らしきもの』を見出していく。そうした流れに沿った問答は、結果的に的外れになることも少ないだろうね」
ちま「それなら確かに・・・ってならないよ!
だいたい、流れはともかくとして、根本原理なんてどうやってわかるっていうのさ?」
主人「いや、そんなに特殊な話じゃない。構造を読み解くんだ。データをプロットして関数を導くようなものだね」
ちま「構造ってどういうこと? よく、話のスジとか論理の柱とかいうけど、そういうもの?」
主人「まあそうだね。俺は論理の柱を重視するけど、話のスジという感覚も大事だよ」
「論理と感覚が対応してこそ、整合的な理解と実践につながる。たとえばいまこうして何気なく運用している言語だって『文法という論理的メカニズム』と『意味という先験的感覚』が違和感なく統合しているからこそ、自然に使えるんだ。
ヒトは普段の生活で言語とイメージを自然に操っている。とりわけ、形式と意味の両輪を経験的に違和感なく行き来できるという点はヒトの認知能力の重要ポイントだね。そして形式はともかく、意味というのは実に奥が深い」
ちま「文法と意味はわかる。論理的メカニズムもなんとなくわかる。先験的感覚ってなに?」
主人「先験的感覚とはつまり、知識的な記憶や意識的な論理の運用に依らない、無意識的に抱く印象、モヤモヤだね。
覚えたての言葉をすぐ使うとき、やったことないことや、はじめて考える物事に向き合うときなんかは、使える経験が見当たらないことがままある。経験に先んじての意味解釈、それが先見的感覚だ。赤ん坊にまで遡って考えると、その原点は本能だともいえるね」
ちま「経験の起点なんて思い出せないし、無意識的になるから、本能であり先見的なわけか」
主人「そうだね。ふっと思い浮かべたことを喋るとき、通常いちいち文法なんて意識しないわけだけど、大抵は実用に足りるだろう? こうした自然な跳躍は、機械にはまだ難しい『ヒトの特色』だ。処理のショートカットでもあり、人間的な発想の飛躍の要因でもある。
でも時には、喋った内容が文法や論理に照らしておかしな運用になってしまうことも出てくる。というか少し厳密に検討すると、途端に整合性が怪しくなってくる方が普通だ」
ちま「やりとり内容以前に、言葉で表現することによる行き違いがあるってことかな」
主人「そうだね。行き違いとしてはたとえば『話す』と『放す』のような単純な同音異義語だったり、もっと繊細なニュアンスや言い方だったりする。その関係性は主に形式と意味の両面から説明できるけど、実際にはきれいに分かれてはいない。
たとえば方言だ。たしか『ほかす』という関西などで捨てることを意味する表現を『保管しといて』と聞き違えるなんてのがあったな。まったく同じ発話の例だと『こわい』という表現は地方によって疲れるとか、硬いとか、使われ方の差があることが知られている。まあこれらは単なる知識の問題といえなくもない。その地方でそういう使われ方をしていることを踏まえてしまえば大したことはないし、そのハードルだってそれほど高いものじゃない」
ちま「まあ、一度把握できればそんなに問題じゃないよね。書き言葉だったら違和感すぐわかりそうだし」
主人「うん。総じて重大なことにはなりにくいといえる。知識なら更新すべき事柄は明確で限定的だからね。ある知識について違えて理解してたという点を合意するのも訂正するのも難しくはないんだ。問題としては『意味』の解釈の齟齬の方が大変だね。これは要するに、お互いに意味を捉える枠組みが違うことによる行き違いなんだ」
●(その2)文脈と粒度
ちま「行き違いの原因は単純な伝達ミスだけじゃない、ってこと?」
主人「そうだね。伝達ミスといえばそうなんだけど、意味解釈がひとつに定まらないことは普通にある。たとえばさ、日本語で『すいません』と声かけされたとしたら、君は謝られたと考えるかい?」
ちま「謝罪の場面の可能性もあるかもしれないけど、単に呼びかけただけかもしれないし、ちょっとしたお礼かもしれない」
主人「そう、前後の文脈をとらずして個別事例は語れないんだ。個別事例=インスタンスと俺は呼んでいるが、文脈が共有できなければインスタンスは『人それぞれ』で終わってしまう」
ちま「インスタンスね。耳なじみのない言葉だなあ。でも、人それぞれでは何かいけないの?」
主人「人それぞれで済ませてしまうと、粒度が上がらず、理解や認識が深まらないんだ。単なる呼びかけやお礼を謝罪だと受け取ってしまったら、それは齟齬だし、誤解が解けないままだと問題になる場合もある。
そんな文脈依存による解釈のブレを避けるためには、先の例だと呼びかけ、お礼、謝罪の区別がつくように、粒度を上げる努力が必要になるんだ。粒度という言葉もあまり耳なじみがないと思うが…」
ちま「うん。字面からおぼろげに想像できなくもないけど。細かさの程度ってことかな」
主人「その通り。先程の例からもわかると思うけど、言葉のいうのはあいまいさを免れない概念なんだ。粒度は画像でいう解像度のようなものだね。解像度が高ければ対象をよりハッキリと誤解の余地なく描写できるだろう?
同様に、言葉の粒度が高いということは、より精密に説明できるようになったということを意味する。食事をとる。和食を食べる。とんかつを食べる。どこの店のどのとんかつを食べる。という具合にね」
ちま「細かく詳しく、ようするに理屈っぽく…… つまりは君の好物ってわけだな」
主人「そうだね。物理量としての解像度に対応する概念として、情報量としての『粒度』を想定したものだと思ってくれ。さしずめ、意味解釈の細かさってところだな。
たとえば、怒りを示す言葉は沢山ある。怒り、激怒、憤怒、立腹、不快、不機嫌になる、むくれる…… いろいろあるけど、これらをきちんと文脈やイメージとして区別できるなら『怒りという情動についての粒度』が高いといえる。きちんとこれらの違いを踏まえた方が適切に対処できる可能性は高いだろうね」
ちま「うーん。そういう『粒度が高い』のとは逆に、なんでも『ヤバイ』のひとことで済ませるようなのは『粒度が低い』わけか。気楽なのはよさそうだけど軽薄で心配になるよね」
主人「そうだね。マイナスイメージの粒度だけが高まって鬱になるなど、バランスを崩すとそれはそれで問題ではあるけど、思考や感覚を磨く上で粒度が高いことは重要だ。
ただ何事も例外はある。すべてを『ヤバイ』のひとことで済ませるけどすごい人間力の人だって想定できる。そうした人は、言葉の粒度が低くても、感覚や文脈などの粒度が高いのかもしれない。それはいわば、哲学や宗教を高いレベルで修めた人が、慣れないカタコトの外国語でやりとりするようなものともいえるかもね。だから言葉が足りないからといって、必ずしも低レベルだと断じることはできない」
ちま「そういうパターンもあるかあ。一筋縄ではいかないのね」
主人「まあ無制限に丁寧に対応できるわけじゃない。普通に考えて、言葉という形式、文脈という意味、それぞれ十分な情報量があって、かつ適切に文脈連携されないとだめさ。伝達する側には誤解されないための配慮が必要といえる。
とはいえ、受け手側も知識としての精緻さは前提とした上で、微細な読解も必要という話だよ。画像の描画において、高解像度のデータは高解像度に対応したモニタでないときちんと表示できないようなものだね」
ちま「粒度を高めるのはお互い様なんだね」
主人「その通り。そもそも想念を余すとこなしに齟齬なく言語化するなんて不可能だからね。まあざっくりと、データ量は『軽薄になるか頭でっかちになるか』の、文脈連携の適切さは『ハイセンスと意味不明の分かれ目』になると思えばいいよ」
●(その3)言葉の前段階のモヤモヤ
ちま「大量のデータがあって完璧に連携できれば完璧だね」
主人「そこまで話は簡単じゃない。データ量はともかく、適切な文脈連携ってのは状況によるからね。いくら完成度を高めたところで、いかなる場合も完璧とはいかないさ。たとえば笑いはナマモノなんていわれてる。完成度の高い実績あるネタを単純に完全再現しても、場所や客層が変わればウケるかどうか、お客の反応が大きく違うなんてのはよくあることだろう?」
ちま「空気感を読んだ、ネタとアドリブのさじ加減が大事ね。言葉で説明しきれない『センス』っていわれるよね。まったく同じ台本の再現する場合なんかでも、緩急や声の大きさなんかは調整するっていうし」
主人「そうだね。ノンバーバルコミュニケーション、つまり言語化できる部分を超越した領域における『粒度』は『センス』を説明づける重要なカギだと思う。
でも、そうした『センス』の重要性は芸人に限った話ではないし、もっといえば『センスの本質』は身振りや声色などの言語外の特別な表現の技巧で決定づけられるものではないと俺は思ってる」
ちま「というと?」
主人「一言にすれば、当意即妙のマッチングだね。これは知識の照らし合わせとは根本的に違う処理なのは明らかだ。なにしろ『ウケる』かどうかは全てを語り尽くす前の判断なんだから、まさに先見的感覚への印象操作といえるものだ。とりわけ、知識化以前のモヤモヤに対するアプローチは『センスの核心』といえるだろうね。
誰しも、言葉を出す前にはモヤモヤの状態がある。真摯に思考や表現を突き詰めるほど、モヤモヤするものさ。
そうした『言葉にならないモヤモヤ』とは、先ほどの先見的感覚だったり本能だったり混濁した経験則だったりするけど、そのほとんどはいくら頭の中で追跡してもモヤモヤのままだ。
この変換処理は暗号化に近いものがある。伝えたい想念すなわち『意味』を『言葉』にエンコードして、その『言葉』を受け取った側は『意味』にデコードするという流れだ。その過程でかなりの情報はカットされている。そして実は自分の記憶から意味なり言葉なりを引き出す際にも同じことが起きている。
ポイントは、アクセスしている今の自意識が、記憶のイメージを生成しているということだ。実際、退行催眠なんて現状におけるイマジネーションを引き出すだけだとずいぶん前から知られてるしな」
ちま「退行催眠だと記憶をそっくり取り出せるものかと思ってた時期があったけど、考えてみたらそんなの確かめようがないもんね」
主人「そう。仮に偶然の一致があったとしても、それが必然かどうかは確かめようがないんだ。引き出すモヤモヤが今つくられているのにそれを当時の事実の記録と決めつけるのはナンセンスだ。ヒトは通常時の記憶や認識ですら信頼性は限定的だからね」
ちま「いろいろ実験とかあるし、手品にはみんな騙されるしなあ」
主人「スリや詐欺師の技術にもすごいものがあるね。そして当たり前だけど機械はヒトと同じようには騙されない。ヒトのモヤモヤにあたる機能がないからね。機械のハックをしたければ、機械の内部処理に沿ったやり方をするわけだ。
で、話を戻すと、ヒトにおけるモヤモヤの扱いというのは、直感的な『センス』そのものに相当する処理なんだよ。もちろん、お笑いのようにその場での他者の反応に特化される『当意即妙性』だけとは限らない。小さな違和感をずっと追い続ける粘り強さや簡単に説明できないある種の美学の探究など、ヒト価値観の根幹になる『こだわり』は区別できる形で複数存在するんだ」
●(その4)モヤモヤの種類
ちま「モヤモヤなんて無駄だと思ってたけど、その扱いがセンスそのものだと考えるとありがたみが出てくるなあ。それにこだわりはセンスの元なんだ」
主人「まさに、モヤモヤをいかに丁寧に、大切に扱うかで表現力の深みは大きく変わってくる。そして大事なのは単なる形式的な言葉上の整合性や表面的な完成度だけではないんだ。整合性という概念において、言葉にならない領域における意味や文脈の整合性が土台にあるという認識がまず大事なんだ。センスの元になるこだわりは決して均一なランダムなんかじゃないわけだからね」
ちま「こだわりやセンスにも種類や傾向があるんだ」
主人「まあ、モヤモヤの扱いは個性そのものだし、個性には傾向がある。そして、こうしたモヤモヤの扱いは、他者の反応がなくても、いやむしろ自意識内での自問自答こそが重要なんだ。意味解釈だけでなく記憶すら生成されるということは、自問自答というアクセス行為で内部表現が書き換えられてしまうということだからね。先程の退行催眠の例なんかでも、働きかけ側の偏見が引き出される記憶を曲げたということが明らかになったことが見直しのきっかけになったわけだし」
ちま「間違った記憶が、正しい知識なわけがないもんね」
主人「そう、客観的に照らし合わせることができるタイプの行き違いだから検証できたんだ。行き違いにも種類がある。既存の整合性に沿おうとする『知識』ベースの齟齬と、既存の整合性を跳躍しようとする『言葉にならない意味領域のモヤモヤ』ベースの齟齬は、きちんと区別した方がいい。後者は直接客観的に照らし合わせられないけど、だからこそ秘匿された『価値観の根幹部分そのもの』といえるからだ。まあ自覚的に他者に学ぶのは良いけど、望まない汚染は避けられる実力を備えるべきだ。それは結局、盲信を防いで自覚的な学びを助けるからね」
ちま「働きかけることで価値観が曲げられるというのは、怖いことだね。知識を上書きするのとはわけが違うよ。どうすれば良いの?」
主人「そうだね。まず先程もいった通り『知識』と『言葉にならない意味領域』のモヤモヤの識別だね。これは理性的に、かつなんでもアリの多面的なアプローチでモヤモヤに踏み込むことが肝心だ。あわせて完全な理性的処理はヒトには無理だということも前提としておさえておきたい。その上で『知識扱いにすること』と『意味解釈の価値観として扱うこと』の境界線について、主導権を確保することだね。
主導権争いは結局、意識化されない部分の臨場感感覚の綱引きになる。この場合、情報量が体重、臨場感(すなわち感覚的な重要度)が重みのつけ方、それらに対する情報処理力が体力に相当すると見立てることができる。
情報のうち、知識は意識化されるので、処理が見えやすいんだ。でも言葉にならない意味領域は意識化されにくく、したがって処理も見えにくい。そして内部処理のリソースには制限があるんだ。
だから相手にとって『知識』として扱える事柄が、自分にとって知識化に至らない『言葉にならない意味領域』だとすると、そして情報量に差がつけられると、かなり不利になる。相手側の体重が重くて重心を落としていれば、こちらは体力が続かなくて力負けするんだ。これ、かなり単純化した説明だけどね」
ちま「ああ。なんかわかる。最初の引き合いで大体決まるのとか、負ける方は力尽きる感じなのとか、いかにも綱引き的だ。力負けする側は丸め込まれるしかないの?」
主人「もちろんそんなことはないよ。そうした時、相手の話に揺らがされないことで、ひとまず丸め込まれず現状維持をすることができる。耳を貸さないとか、聞いて、分が悪いことを察した上で、受け流すといった感じだね。
知識で否定されても、意味解釈を拒否することはできる。ただ知識と整合的な意味解釈で理解の外堀を埋められると、まあキツいよね。知識の整合的な理解と意味解釈の丸め込みを区別するには、大前提として知識と意味解釈の識別ができないといけない。そして知識の処理に負荷がかかれば、抵抗する意味解釈を考えるのに差し障ってくるわけだ。結果、思考停止や屈服、懐柔や転向といった思わしくない結果につながりかねない。
たとえば過去の何かしらの事件の良し悪しについての会話が議論に移行し行き違いが生じるような流れがあるとして、こちらが知識がないのにも関わらず、相手は知識が万全でしかも整合的だったとしたようなとき、それは正しいとは限らないと知識方面で反論するより、その解釈は拒否しますとか、その主張には価値が低いと思いますとか言う方が圧倒的に楽だろうね」
ちま「なんかすごく…… 負け惜しみに聞こえます」
主人「まあ、現実にそのまま伝える必要はまったくないね。言葉を偽ってでも主導権を保つ必要がある局面もある。言い聞かせるべきは自分なんだ。少なくともこの場合、相手に対する説得は期待してないんだからね。
大事なのは、知識的な正しさがあるというのと、意味解釈を受け入れるのは別物だということ。そして採用は自由ということだ。揺らいだらまずい場合はこういう方法もあるってこと。建前や先送りで身を守ることもできるし、納得して考えを変えてもいいんだ。
この辺りの感覚はどうしても抽象的にならざるを得ない。印象というのは考える前に生成されるし、本来言葉で扱える粒度を超えてくるから、仕方ないんだ。ただ、綱引きだから、優勢も劣勢もあり得る。自分らしくないとか違和感を大事にすれば、主導権の喪失は正しく自覚できる可能性が高まる。囲碁や将棋で、勝負の勝ち負けが見えれば適切に投了、負けを認めることができるという感じだな」
ちま「先読みで結論を合意できれば効率が良いよね」
主人「そして、そういう意味解釈のモヤモヤの扱いについての整合的な認識を肌感覚、身体感覚のレベルで身につけられると、逆説的に形式的な完成度も上がるという道筋があるのは事実なんだ。
ピカソの抽象画みたいなものかな。別に彼のデッサン力が落ちたからああいうアプローチになったわけじゃない。一般的には作品の完成度が上がったと評価されるところだね」
ちま「あの絵に凄い値段がついているんだもんね。でも私には理由がわからないw」
主人「芸術って読解者や市場の存在あってはじめて世の脚光を浴びるところがあるから難しい。市場性を土台にした評価は表現の個別性に焦点合わせする上で邪魔になるからね。
少なくとも、ピカソ本人は市場価格が上がることを狙って珍奇な画風にしたわけじゃないだろうし、そうした相場操縦的な観点は外して考えたいけど、どうしても有名作は市場性抜きに評価することが難しいね。芸術のプロが面白さを見出していること、大金が動いているという現実はあるといえるな。
ともあれ、現代芸術のプロの世界でも、写実の技術を極めた作品よりも、抽象度が高い作品の方がオリジナリティがあって評価される傾向にある。それは表現者の頭の中を外部に構造化することの価値を重んじるということなんだと思う」
●(その5)モヤモヤの開放
ちま「抽象画の方が、作者の頭の中のモヤモヤをより忠実に表現できているというなら、より高く評価されるのもわからなくないね」
主人「そうだね。視点を変えて、身近な人の表現や作品に触れる場合とか、言葉ややりとりそのものを作品として鑑賞するという観点に立ち返れば、市場性を外して考えられるか……
子どもの表現とか作品はその際たるものだろう。整った作品かどうかよりも、創作のときの頭の中身や身体の動きを思わせるような作品の方が、親としては見て嬉しくなると思うんだ。
子どもは世間一般の通念など踏まえていないものだし、言葉や論理も発展途上で、そのくせ創作意欲は旺盛だからね。それをそのまま素直に表現してくれたことを喜ぶ気持ちは親心としてわかりやすいと思う」
ちま「子どもの自由な表現は良いよね。色使いとか面白くて」
主人「個性的云々というより、内面をそのまま出すというのが素晴らしいよな。作品づくりなんて、危険の及ばない範囲でなら、お利口さやききわけの良さなど気にせず『内的処理』をフル動員してやってくれた方が良いに決まっている。
いうまでもなく『内的処理』とは思考、情動、知識、感覚、感性、すべてひっくるめたヒト脳の情報処理の全部だ。子どもの適性や偏りなんて聞き取りや試験でわかるもんじゃない。悪ガキの悪ノリの、創造的な側面に集約させて没頭できるのが理想的なんだ。それには本能的な快楽原則にもとづいた『遊び』感覚の発火が最適なんだ。
せっかくの表現、正確にはその前段のモヤモヤの扱いを大人の感覚で小さくまとめたり抑圧したりしてはいけないと思うし、その自由闊達なアプローチに関してはむしろ大部分の大人の方が学ぶべきところが大きいのは間違いないと思う。
大人が学ぶべきは表現の心意気だけじゃない。作品を鑑賞する指針もなんだ。子どもの自我が発達してきているのに、なんでも手放しで褒めるのは、なんでもけなすのと同じく戒めるべきことだ。それは作品の中身を整合的に読解しないという点では同じだからね」
ちま「それはそうだ。作品に中身に向き合ってくれてるかはすぐわかるし、作品は子ども自身の分身みたいなものだもんね」
主人「まったくだ。にも関わらず、鑑賞する側にモヤモヤの重要性の観点がなくて、単に写実的なうまさだけを論点にしたり、知識も読解力もなく『太陽は赤だよね』みたいに世界の受け取り方を一方的に押しつけてしまったりすることで才能が開花せず勿体ないことになったり、齟齬を生じたり、子どもとの関係が壊れたりすることもあるみたいだね。
こうした内的な抑圧は、『紙と絵の具で描こう』みたいなフェアな外的制約とはまったく違う、単なるエゴイズムだ」
ちま「そう考えると、子どもの表現にどう反応するべきか悩ましくなってくるね」
主人「親が子どもの行為をなんでも喜ぶのは悪くないんだよ。親にとってたとえ部分的であっても本音で、子どもにとって一貫性が見出せるものである限りはね。
問題はあくまでも親自身が評価系を歪めて見せてしまうことなんだ。いっそ評価をフラットにするというやり方もあるけれど、子どもには承認欲求があるわけだから、それを無視するというのも不自然になる。ただ素直に反応すれば事足りるとはいえ、それはなかなか難しい。普段から素直になりきれないのに、表現についてだけ素直なんて作為的で不自然の極みだからね。
結論は、親は喜んで見せるだけに留めて細かな評価は控えめにして、速やかに責任ある専門家につないであげるのが正解だと思うよ。わからない事柄への丁重かつ一貫性ある対応として子どもに示せば良いんだ。もちろん繋ぐ先は専門知識だけじゃなく子ども対応や発達心理を踏まえた人でないと性格の相性以前の問題だけどね」
ちま「うわーハードル高すぎ。専門家とのつながりなんてそうそうないよ。子どもはすぐ、いっぱいいっぱいになるのにね」
主人「いや、大人だって基本は同じさ。外に発しないものも含めて、頭の中で走る言葉って、まさに『自分の思い』そのものとして自覚される最有力素材だからね。その影響力は甚大なんだ。はっきり自覚できる思考って、たいがいは言葉による自問自答だろう? でも言語一辺倒は危うい面もある。
言葉にできているのは本当に氷山の一角だし、状況によって『出させられてる』ことも多いものだからな。自問自答の言葉を整えるのは、逆向き、つまりそれをひねり出す自分自身を整えることになるんだよ。もっといえば、繰り返しになるけど『言葉にならない違和感や感覚』こそ重要なんだけどね。言葉に焦点合わせると他がおろそかになりがちで、表面的で凡庸な内部処理に終わってしまうことが多い」
●(その6)さまざまな意識状態
ちま「言葉で自問自答することに頼らない内部処理って、感覚的な空想とかかな」
主人「そうだね。視聴覚や嗅覚や触覚などに臨場感を寄せることで、言語や論理の処理を落とすようなやり方があるね。
たとえば瞑想では半眼だけ開いたりするけど、これは閉じてもいない開けてもいない状態だね。視覚情報をカットし、目に力を入れない、心身の脱力の型であり、それ自体が瞑想のスイッチにもなるという、ヒトの性質に沿ったうまいやり方だ。
ヒト脳の内部処理の真骨頂はそうした瞑想状態、意識状態の変異に見出すことができる。しかし、一時的な神秘体験みたいに、高度な瞑想による特別な状況を少しだけ経験するよりも、日常の意識状態を上手にコントロールし続ける方が人生への寄与はずっと大きい。
しょせん一時的な体験は時間の経過、日常生活への回帰とともに臨場感が薄れて、忘れ去っていくものだからね。もちろん完全に影響がなかったことになるわけじゃないけど、それだけで絶大に人生が変わるというものではない。神秘体験というだけあって特別な経験だから目が眩むのも無理はないけどね。
逆に、むしろより強烈な神秘体験を求めて道をはずす危険もある。きちんとやれば瞑想状態でもたらされる意識の変性は凄まじいもので、精神作用のある医薬品や違法薬物と同じように副作用もある。実はこれらは伝統的に知られていて、魔境とか禅病という概念で戒められてもいるんだ。
だから一瞬の神秘体験よりは日常生活の中で言語と他の感覚を行き来すること、日々自問自答を鎮めて没頭すること、そうした精神修養を取り入れて、その累積で内部処理の基準を少しずつ引き上げていく方が確実だ。丁寧に内観を重ねるということだな」
ちま「ちまちま行くのは嫌いじゃないけど、それだと自分で変化が実感できるか不安になるね」
主人「まあ、いきなり完璧を目指すのは無謀ってことだよ。たとえば武術において、鍛錬と気づきの積み重ねをするようなものだ。音楽や運動なんかもそうだろう? 達人たちだって、教えによって得られた断片的な変化を自分に落としていくことを愚直にやっていって強くなっている。それは知性や精神性でも同じなんだよ。
俺はそれをヒト精神性の側面における普遍性だと理解している。ヒト脳の内部処理における基礎能力という位置づけだから、決してそれだけで派手な技が出せるようになるわけじゃない。
まあ、武術ではモヤモヤと技の早さ、その静と動のバランスこそに極意があるという扱いらしいけどね。達人は特別な技にではなく、基礎動作の卓越性で熟練度合いを見極めるという話だ」
ちま「普段のなにげない言動や所作に達人っぽさが現れると考えると、なんかすごいかも……」
主人「大筋、その理解で間違いないよ。まあ達人を知るのは達人だけなので、そもそも他者の理解を求めるという性質のものじゃない。それは承認欲求につながって、容易に堕落してしまうもとだからね。自分を高めて、自分を知るという流れだ。もちろん、きちんと師事していればまた話は違うわけだけど。
ここで伝えたかったのは、言語化に至る前の思考や想念、イメージなんかは、形を持った言葉よりもずっと繊細で、意味解釈があいまいになるものなのはいうまでもない、ってことだね。
言語は決して言語概念だけ独立して成り立っているわけではなくて、様々な想念やイメージ、そのときの情動や意識状態や生理反応の状態を反映してが紐つけられた脳内反応、内部処理としてその都度で生成されるんだ。
だから整合的読解にあたって、言葉そのもの以上に言外のニュアンスが大事になる局面も多くなる。これらは個々の情報そのものというよりは、スピード感や組み合わせの規模や複雑さなど、ネットワークとしてのパラメータになると俺は考えてる。
仮に二人の人がいて、ある領域において同じ程度の知識しかなくても、取り組みを続ける中でそれぞれ成果に大きな差がついて、それが……」
ちま「表面的な知識に左右されない有能さとして現れる、ってことなのか。納得」
主人「有能さというのは必ずしも属人的な要素ではないことは注意が必要だけどね。多方面ですごく稀有な才能を持つ人が恋愛ではからっきし、なんて例はよく知られるわけだし。
ただ総合的な有能さというのは、下からの視座では上の全体像は見えないという事実もあるから、難しいところだね。時代をまたいでやっと真価が理解されるという事例も多い。真価を知るのが難しいのは、他者について、そして自分自身についても同じことなんだ」
●(その7)健全な懐疑主義
ちま「頭の中って思った以上に複雑なんだね。わりきった説明が難しいのも当たり前な気がしてきた。だから構造を取らないと、わからなくなるのも無理はないのね」
主人「構造を取ることの重要性がわかってきたようだね。もうひとつ、構造をとるときに俺が注意しているのが、『いわゆる人間性は無視する』ということだ」
ちま「エッ、人間性を無視するってなんか非人道的なイメージが…」
主人「あくまでも『通俗的な人間性という通念』について懐疑するということさ。通俗的人間性という枠組みはきわめて曖昧で、不整合の温床になるんだ。きちんと考え抜かれた人間性ではなく、フワッとした印象論で使われるイメージが『通俗的』ということだから、これは一種の同義反復なんだけどね。『頭痛が痛い』みたいな。
だから、まあここでは、恣意的なイメージ操作や影響をリセットする仕切り直しなのだと考えてほしい。なんの変哲もないように見える文化風習だって、ルーツを辿ればなんらかの意図があって成立したものが多くある。そして時の経過とともにその多くが成立時の意図とはかけ離れた運用をされているわけだ。いまある文化風習は、いまの必要性に依拠して成り立っていることが多いのは当たり前さ」
ちま「文化風習や通念も適者生存の原則に従って変化しているわけね。まるで生き物の進化みたい」
主人「まさに淘汰だね。人間の意思を含めた現象についてだから自然淘汰といえるかはともかく、各人にとっては自然の淘汰圧と同じで、自在に調節できる要素ではないことは確かだ。
つまり個人の思惑を越えた現象と考えた方が良い。でも個人レベルでも仕掛けや誘導はできる。十分なリソースと準備さえあれば、恣意性を隠蔽することさえ可能だ。だから疑いなく当たり前に良い事とされている価値観こそ、注意深く警戒すべき対象といえる。
正義感、とくに「人間性は侵すべからざる大事なもの」みたいな思い込みはしばしば利用される。「価値観は人それぞれであって、気に入らなかったり不都合があっても尊重しなければならない」とかはいかにも正しそうで、従わないといけない気分になってくる。
そういった通念に沿った「べき論」は支配と抑圧の手段になるんだ。たとえ主張に一面の真実があったとしても、各人がそれに自縄自縛になって、自由度が下がるのはいただけない。それなら、人間性なんて一旦外して考えたり感じたりする方がはるかに良いんだ。
まあ、一旦外して考えられる。認識を制御できるという自在性が、考えたり感じたりの上ではより安全で確実な要素なのだと思うよ。これは「思考が優先」とか「感覚を大事にすべき」とかの話ではなく、それらヒト脳における内部処理の全般についての大原則として位置づけられる「健全な警戒心」だと思ってほしい」
ちま「構造を取るって、そこまでするんだね。言葉はもちろん、人間のやりとりは多くの面であいまいさがつきものだからかな」
主人「それは確かにあるね。より正確にいえば、意味のあいまいさと理解の確信のギャップを埋めたいわけだ。なるべく齟齬が少なくなるようにね。それが整合性というわけだ。そして自意識の抱く整合性の印象とその実態はしばしば解離している。
とりわけ、家族や親しい友人といった身近で気楽な存在ほど、話のスジを共有できている感覚を持ちやすい反面、それをわざわざ確かめるのを野暮ったく感じがちになりがちだ。そして身近で気楽な人間関係は日常生活の上での重要性が高いことが多い。生物としての本能はそう判断するからこそ、色々な仕組みが備わっている。近親姦を避ける本能的な機能とかね」
ちま「自分がよくわかっていると思い込んでいる身近な存在にこそ注意が必要なのね。でも実際に身近なんだから誤解はすぐ解消されるんじゃないかな?」
主人「たしかに心理的距離が近ければ、それだけ誤解を修正することは容易いように思えるね。だけど距離が近い、接触頻度が高いということは、それだけ誤解の発生回数が増えることを意味する。そう考えると、惰性で解釈を重ねるのは危ういんだよ。不整合に晒される頻度が高いということは、不整合やトラウマの形成に直結するわけだからね」
●(その8)問いの定式化と意味の咀嚼
ちま「言葉が誤解を生むってことはわかったし、意味解釈の違いが行き違いの理由だってことも理解できた。苦い体験も多々あるからそれはわからんでもないけど……
じゃあどうしたらいいの? どうして良いかわからないよ」
主人「おめでとう。ちまは『どうして良いかわからない』ことがわかったわけだ」
ちま「はぁぁああ?? そうかもしんないけどさあ!
頭使ったんだから、即、役に立って欲しいわけ!」
主人「いやいや。『わかってる』という思い込みが支配していた状態からすると、ずいぶんな前進だよ。
ちまは次女に色々働きかけてた時、母親として次女を『わかっている』という認識に疑いがなかったはずだ。逆にいえば、確信があったからこそ、思った通りにならなかったことに戸惑っていた。つまり不整合、認識と現実のギャップに困っていたんだ。
それがいま、困りごとの内容が明確に変わったんだ。ちま自身が『わかってない』という事実を自覚した上で、『どうして良いかわからない』と悟った。無理矢理説得されたわけではなくて、ちま自身が自然に自力導出して、もはや当たり前という感覚に変わったわけだ」
ちま「そうなのかな? そんな気もするけど、そんなにきちんと詰めていたわけじゃないからわかんないや」
主人「素直だな。もちろん、形式的レベルでの厳密な意味での確信ではないだろうね。でも明確に疑う術もなかったはずだ。つまりはグレーゾーンだったわけだ。言葉にできないレベルで違和感は持っていたけど、整合性ある説明も理解もできずにいた。でも俺が聞き取り、読み取ってちまに提示した構造をもとに試したら上手くいった。そういうことなんだと思うよ」
ちま「まさにその通り!」
主人「それが相転移の過程なんだ。氷が水に、水が蒸気になるようなものだね。で、この変化の流れをちまが自力で活かしたり、可能にしたりするのに『どうして良いかわからない』ということなんだと思う。これは意識状態の明確な更新だよ。せっかくだから構造的に考えてみようか」
ちま「えー。ちょっと見透かされるみたいでこわいなあ」
主人「まあそう言うなって。構造を取るメリットというのは多岐にわたる。予想ができる。比較ができる。決断の水準が上がる。単純に良い結果が出るだけでなくて、結果を受けての仕切り直しができるようになる。
チャンスを活かして、ピンチに対処する土台になるんだ。決断は、突き詰めれば行き当たりばったりなんだけど、それはサイコロを振って決める的なものではなくて、その都度で『全体を反映した構造を整合的に取り直す』ということなんだ。
せっかくだから疑問の定式化をもっと進めてみようか。ちまが構造認識すべき対象って結局のところなんだと思う?」
ちま「うーん。『他者』かな。いや、より広い観点から『状況』だと思う」
主人「なるほどね、悪くない。でも次女のことでちまが俺に相談する前と後で、次女という『他者』や『状況』に明確な変化があったと思う? 俺は今回、ちまとは話をしたけど、次女に直接言い聞かせたり、環境を整えたりは特にしてないよね」
ちま「うーん。それは確かにそうね。直接に変わったのは自分だけだ。なんだか、自分で自分がわからなくなってきたよ」
主人「そう、それだよ。
俺に相談する前のちまと、相談した後のちまとでは次女や状況の見え方が違ったはずだ。だから次女への働きかけも結果も変わった。別に俺がちまの横に張り付いて指示を出し続けたわけじゃないからね。結果を出したのはあくまでもちま自身なんだ。
つまり、ちま自身の構造認識の変化を踏まえて、他者や状況の構造認識をするのが、一段高い整合的な認識に至るコツのひとつなんだ。ちま自身の認識や価値観というフィルタは、他者や状況を判断する最重要のポイントであるのは、疑問の余地がないところだろう?」
ちま「あー。なるほどね。うーむ。色々わかってきたけど、やっぱり子育てや人間理解にそのまま活かせる気がしてこない」
主人「そうだね。いまの説明で理屈はわかっても、それで『自分というものが全部わかった』とはならないのは当然だよ。結局ちまのいう通りで、まだ『自分で自分がわからない』のだと思う。
他者を評価するのも、状況を判断するのも、自意識と内部処理という『自分』があってこそだからね。他者も状況も、主観的にはヒトの自意識がつくりだしたシミュレーションさ。それらはインスタンス、それぞれ独立した個別事例だから、その理解の再現性を確信しないことはむしろ健全といえる。
自分をわかるというのは、結局のところ価値観の核心を知ることなんだ。
より条件つきでない、ちまにとっての『確からしく思えるアウトカム』は何かということだね。これは当然、一枚岩ではないよ。『時と場合の人それぞれ』で生成されるものなんだ。
だから、いつも同じ確固とした自分があるものだと思い込んでいると、不整合になるんだ。かえって右往左往することにつながる。
この宇宙は変化が標準なんだ。だからリソースの限定された生物では、省略を前提とした認識における決断がなされる。そこには完全無欠な決断なんて存在しない。だから後づけでフェアに検証する必要があるし、フェアに行くためには検証そのものの機会が変な偏りをしていないことが必要になる。『健全な警戒心』を意識にあげることは必須になる」
主人「込み入った話になったから、列挙していくと……
ちま「そんなに色々考えないと整合的に認識することは難しいのか……
何かもう少しわかりやすい指針はないの? 一周まわって結局『人それぞれ』って感じがしてきたよ」
主人「先ほども言った通りだけど、俺は問題解決を考えるときに、いわゆる人間性を忖度しない。
人間性が幻想とまでは思わないけど、感情移入はノイズで、エゴの現れといえる。少なくとも問題解決を考える上では、人間性というのは文学的でなく構造的に読み解くべき対象だと考えてる。必要なのは、プレーンなひな形を使った構造解析だね」
ちま「実際にきみはそうしてるってことだよね。何かやり方のタネがあるの?」
主人「まあ、実はなくもない。根本原理にあたる概念がね」
ちま「ほらみろ〜、そうじゃないかと思ったんだ(ほっ)」
●(その9)たいへきという枠組み
主人「性格、人物像の把握と、発火のカテゴリ分けで物事を整理すれば、大概の反応や衝突は理解可能なものになる。今回については、たいへきというタイプ論の概念体系を使った。
たいへきによると、人間の気質は5つの軸にそれぞれ裏表で、10のタイプに分けられている。
主人「次女の性格はたいへきでは『ねじれ』と呼ばれる軸に属する裏側のもの。たいへきで裏側とは内向きのことだ。つまり自分に対してねじれる『8種』優位にあたると俺は見立てたんだ。これは、つらいと感じる自分自身に対してねじれる、過酷さに耐性を持つ我慢強い形質といえる」
ちま「それわかる。次女はまさにそんな感じ。健気なんだよね」
主人「内向きねじれの『8種』は、欲求に関しても自分に対してねじれるから、ほしいものをほしくない、したいことをしたくないと言ってしまいがちなんだ。それは瞬間的な『ほしい、だから、いらない!』という『発火』としてあらわれることがある」
ちま「えー『ほしい、だから、いらない!』って…」
主人「そして重要なのは、本人はそれを『素直』だと心から自覚している、ってこと。
脳機能的なメカニズムとしては、思考に先んじての『発火』だからね。考えたところで合理的な理由なんて出なくて当然さ。それは主観的には生来の気質みたいに感じられるから、外から普通に思考に言い聞かせても効果は薄いわけだ」
ちま「!? それ! めっちゃ心当たりある! でも、そんな価値観がほんとにあるわけ?」
主人「もっともな感想だと思うし、まさにこの価値観を体系に取り入れたのが、たいへきの凄さ、独自性だと俺は思うんだ。
君でも『ほしい!けど、どうせ手に入らないなら、いらない』みたいな文脈が背景にあれば、君にも想像つくんじゃないかな。それが8種的な内向きのねじれさ」
ちま「酸っぱいぶどうよね。それならわかりやすい。それなら外向きのねじれもあるの?」
主人「あるよ。『ほしいから力づくででも手に入れる』これが外向きのねじれだね。『ひねって力を込めて、力比べで屈服させて手に入れる』というものだ。
これに対し『手に入らないという状況を無意識に想定して耐える』というのが内向きのねじれだ。『ひねって踏ん張って、価値基準の認識をひっくり返す』わけだ」
ちま「ねじれも一枚岩じゃないんだ。でもその違いはわかる気がする」
主人「内向きねじれが発火しやすい8種性優位のタイプは、とくにこれといった理由がなくても、自然に、『ほしい、だから、いらない!』と瞬間的に思い、言ってしまいがちなんだ。それは当人にとっては、心底に素直な行動なんだよ」
ちま「そんなの他人に伝わらないよね…… 次女はどう育てていけばよい?」
主人「そうだね。『ねじれ』を次女の自然さとして扱ったうえで本人の損にならない、むしろ強みになるような『ねじれどころ』を身につけられるように誘導するのがよいな。総合的影響力を考えると『ねじれ方』そのものはあまりうるさく言わない方が良いだろう。これは一朝一夕にいかないから、気長にやっていこうか」
ちま「なんか納得。これまでのモヤモヤが晴れた気分」
主人「それにしても『ほしい、だから、いらない』というねじれ。まさかこんな根源的欲求のタイプがあるなんて思わなかったろう? でも、この『8種』の枠組みをわかった後でなら、似たような局面や人がちまの頭にも色々思い浮かぶと思う」
ちま「そうね、すぐ思い当たるところだと私の母親なんかもそうかも。そんな便利な考え方、いっそ最初から教えてくれればよかったのに」
主人「たしかに、手法だけ取り出しても使えないこともない。実際に俺が教わったコミュニティでは共通言語化されていて便利に使われている。ただ俺はいろいろ疑念というか、整えないとなとずっと考えていたんだ」
ちま「どういうこと?」
主人「近似のワナと決めつけのワナさ。タイプ論は印象ベースの体系だからこそ、それらのワナには注意したい。言ったもの勝ちではなく、非言語的な感覚に丁寧に向き合うための制約が必要だと思ったんだ」
ちま「うーん。具体的にどんな部分に問題を感じたの?」
主人「とくに身体性指標の部分と『生まれつき変わらない』宿命論の部分だね。身体性指標というのは面長だと何種、丸顔は何種、こういう動作は何種、みたいなやつだ。これは正直ミスリードが多いと思う。これって境界をどうするのか曖昧にならざるを得ないし、見方や切り口で例外はいくらでも出てくるからね。まさに近似と決めつけのワナさ」
ちま「たしかに丸顔とか面長とか印象論だもんね。顔認証のシステムとか使えばいいとも思えないし」
主人「その通り。測定精度の問題じゃないからね。でも表層的な精密さにこだわると、タイプ論の強み、コンセプトである即応性と明確さを損なってしまうジレンマに陥ってしまうから、痛し痒しなんだ」
ちま「なるほどね。もう一つの宿命論っていわゆる輪廻転生的な?」
主人「それそれ。『もって生まれた要素』という宿命論は、そういう思想として各人が採用するのは構わないと思う。少なくとも遺伝子という客観要素はあるわけだし、むしろこれはもっと活用すべきだと俺は思ってる」
ちま「遺伝子って生まれつきのものでしょ。宿命論じゃないの?」
主人「エピジェネティクス、すなわち遺伝子は受け継ぐだけでなく、環境との兼ね合いによる発現の有無もあるから、完全な宿命論にはむしろ否定的になるんだ。今では遺伝子編集なんて技術も確立されてきているしな。介入できるということは完全な宿命論ではないわけだ。もちろんまだまだ技術的にも倫理的にも課題もたくさんあるけどね。
問題にしたいのは霊的、スピリチュアル的な宿命論の方だ。これは日本の文化風習を受けてのものでもあるし。ただ、たいへきという方法論の実用部分にコンタミさせたくない。これは俺の個人的な思いだね。立証しようがないのだから、そこは触れないのが妥当だろうという考えだな」
ちま「突っ込まれて困るような部分はあらかじめ外しておくのか。さすが策士」
主人「まあ、たいへき自体、そもそもが東洋系整体の流れで生まれた体系なんだろうし、色々スピリチュアル的概念も混じっているからデリケートなんだよ。少なくとも、そのまま薬局で白衣着て話せる内容じゃないと俺は考えたわけさ。
それに、それらデリケートな要素を外したから体系が崩れるという事はなくて、むしろ説明としてわかりやすくなるだろうという計算もある。表面的なデータのエビデンスを追い求める思考や、立証不能なスピリチュアル要素を焦点から外して薄めて、考え方の枠組みとしてなるべくプレーンなものにまとめてみようと思う」
ちま「たしかにね。子どもの人間性を宿命的な決定論をベースに扱うとなると、ちょっと違うなあ、という感覚よね。親から受け継ぐ霊的な要素とかいわれてもちょっと……ね。後づけの説明を遺伝子や最新知見で補おうというのも、いかにも泥縄で無理がある気がするし。生まれが悪いのは諦めて淡々と徳積みしましょうみたいな話には抵抗感ある人も少なくないと思うね」
主人「まあ、日本の保険医療でも使われてる漢方薬なんかの背景でもある東洋思想くらいのイメージを、脳神経科学や生物学でわかってきたアルゴリズムと整合させて実用性を目指す感じかね。俺が教わったこととはずいぶん逸脱した独自解釈になるけど、それを話すことにするよ」
ちま「それで良いから知りたいよ。その方が育児にも仕事にも使えそうだし。さっそく先に進んでちょうだい」
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