今日4月10日、リーダーレベルは実務レベルの善後策を考えるべき段階に入ったと認識し、わたしはこの文面を書いている。妥当な現実認識や思考のたたき台になってくれれば、わたしは嬉しい。各人の心の平穏と、安心安全の担保としての秩序維持を心より望む。
本稿では、あえて精査した調査はせず(それはドツボになるので)、わたしの現時点での医療者(バックグラウンドは数十の調剤薬局を巡った薬剤師。病院経験はない)としての印象と思いを書き連ねておく。
まず、依存可能なエビデンスがないのは当然だし、現状「一次情報はない」とみなす必要があると考える。政府が一次情報としているのは流動的な公式見解に過ぎないもので、断じて確立した科学的根拠ではない。政策の説明原理としての情報共有は重要なものだが、この点はしっかり区別されたい。公式見解には観測気球もあるのだろうし、それは秩序維持と公益性から必要なことなのだから、変な批判や右往左往はしないこと。日常の正気を保つ。いつもより規律をしっかりする(衛生原則を守る、いつもよりしっかり休む。休業の基準を緩めるなど)ことに注力したい。
普通に意識し実践すべきこと
手洗い、うがい、マスク、距離を取る、睡眠と体力温存、適切な食事、体温維持と発熱支援、総合免疫力のコントロール。
具体的には
・食事や鼻かみ、顔を触る前の、手洗い、うがいプロセスの徹底。
・食事前にスマホを消毒するか、使わないか、タッチペン使用を徹底するか。
・身体を冷やさない。いつも以上の睡眠管理。
・発熱前の体調変化に注意する。つまり発熱を第一指標に置かないということ。
・体調悪いときの食事指針を確認しておく。基本は小食絶食、吸収しやすいもの。水分はこまめに補給。
・解熱剤はアセトアミノフェン含めて使わず、休んで眠る。入浴や散歩、気晴らしなど、個々の身体に聞いて無理せずやる。ひきはじめにしっかり使えば、葛根湯や麻黄湯は有効な可能性が高いと思う。普通の風邪にもインフルエンザにも有用だからだ。
・鼻うがいは今回ばかりは必要かも知れないが、それが感染経路になっては元も子もない。器具管理やプロセスには細心の注意を。
・免疫系は結局のところ、意識状態がかなり関与する。内分泌や外分泌といった「唯物論科学的」要素からだけでもこれを否定はできない。ただ、意識状態を好転させる唯物論科学的手法はそんなにないから、各々の文化風習、選好尺度、重要性感覚に応じてやるのが良い。信仰があるなら祈りの時間を持つなど悪くないだろう。その際も「唯物論的感染制御」による批判的吟味はすること。日本の神社の「「お手水」はアルコール消毒をもって実施したとみなす」というような柔軟性と現実主義的対応は、心から称賛に値する。宗教指導者や幹部たちについてはこの方向性で徳を積んでほしい。
コロナウイルス一般についての、ある薬剤師の認識
種類たくさん、変異たくさん
これはインフルエンザと比較しての印象。だから少なくともインフルよりも厄介だし、ワクチンの効果期待もかなり下だろう。(インフルワクチンのNNT、1例の効果をだすのに必要と想定される介入数は、いくつかの調査で二桁だったように記憶しているが、それより低くなるとわたしは想定。亜種発生の頻度や種類も未知数だ。普通なら弱毒化共生に収束するはずだが、抗ウィルス薬の無秩序な使用により文明破滅ルートもあり得る)
全体像としては「感染力が強く、潜伏期間が長い。不顕性感染も多数出る。亜種ウイルスによって同じ人が何度も感染するし、日和見感染も当たり前の市中感染症」という構造により、通年で市中感染している。完封は基本的に無理筋(一斉ロックダウンが必要な局面が来る可能性は否定しない)
なお、こうした基本的性質と、重症化例が少なかったことにより、これまでワクチンや抗ウィルス薬による治療はほぼ試みられることすらなかったというのが現実だ。感冒の患者数やそれによるダメージを考えれば、製薬企業にとって明らかなビッグチャンスなのに、だ。
そうした意味では「市中感染ではきわめてありふれたウイルスであり感染症である」実情とは裏腹に、「大規模感染制御という文脈では未知の要素がきわめて大きいウイルス」であることが少なくともわかる。
まとめると、通説や印象に反する事実が起きても、まったく驚くには値しない。故に臨機応変な思考と行動が必要であるということだ。当たり前すぎ、何の新規性もない結論で申し訳ない。以下はさらに推測と仮説の要素が大きくなるが、わたしのいまの認識を書き連ねておく。
どうしてこうなった?
いま、今回のような未曾有の新型コロナ騒ぎにまで至ってしまったのは、こうした「治療や予防、回避における抜本的な対処が存在しない」という状況にその因がある。
そもそも、コロナウイルスの一般的特性から、技術的な根絶や完治があまり期待できないのだ。わたしの考える封じ込めに関しての私見については後述するが、この「事後の有効な直接対処なし」という状況に加えて
・肺炎の急変と死亡リスクの存在、それと死亡率そのものの高さと後遺症(肺繊維化による呼吸機能低下)
新型コロナの、まさにこの致命的な性質によって、全体での対策を余儀なくされた、というわけだ。(中華では都市封鎖ができる体制があったから、そのようにした。狭いエリアで完全に一極集中している日本では難しいしあまり効果もないと思われる。が、状況によっては実施せざるを得ない。この場合もどちらかというと「状況告知」の意味合いが強いのだが)
グローバリズムおよび比較優位というパラダイムに立脚したきわめて「効率的」な社会デザイン、都市機能が、地域や貧富に関係ない重症化および死亡リスクを「地雷化」したのだ。しかも、この地雷は潜伏して感染する。感染症なのだから、当然だ。そして前述した通り、感染力と生存能力は比類なきレベルであり、おそらくかなりの変化対応力も備えていると想定しなければならない。
(後述するが、だからミクロレベルで真に効果あると想定される抗ウィルス薬の使用は、全体戦略を考慮し、秩序をもってなされるべきと、わたしは考えるのだ)
この「地雷化」という特性により、都市部の富裕層、政策決定者たちの尻にも火がつき、即座に本気を出すべき状況と共通認識されることは、大衆にとって幸いな側面もあるかも知れない。勿論、ポジションの違いを踏まえた、健全な警戒心は必要だ。
たとえば
・日本は衛生観念が高いから比較優位がある
・若者は比較的リスクが少ない
・基礎疾患持ち以外はリスクが低い
などといった言説が飛び、不適切な認識と印象拡大が無秩序に拡散している(少なくとも初期にはすごく広がっていた。認識の改め、訂正と上書きが必要だが、おそらくマスコミやSNSでの自浄作用など期待できまい)が、リスク管理の観点からすると、リーダークラスは勿論、個人もまともに取り合うべきではない。何より子を持つ親は皆、家庭のリーダーであるという事実を忘れてほしくない。
ゆえに、政策レベルの公衆衛生と個人レベルの認識および行動判断は、きちんと区別されなければならない。たとえば、例示した3点が公衆衛生のデータから真であるとしたとき、個々の日本人、若者、既往症なしの市民が感染、重症化、死亡について「考慮しなくてよい」とは決してならない。各人の幸福追求の観点から、政府広報やマスコミのポジショントークを適切に割り引き、「市民の義務としての公益性」と「各人にとって価値ある決断」を両立実践してほしい。情動ベースでなく理性ベースの意識状態を維持することが必要な局面である。
理性的に考慮するとは、判断基準、尺度、思考と行動を最適に整える、環境変化に対応するということに他ならない。もちろん大衆に変なことをされるよりは日常通り動いて貰った方が政府としては望ましいのだろうし、大まかに全体最適にも適うのは事実である。しかしいざ、逆境が各人の身近に迫り、襲ってきたとき、反転して極大化した恨みや極端な行動を発生させるのでは困るのだ。それは共同体秩序を致命的に破壊する引き金になるかも知れない。
だから、政府や行政の公式見解や決定を殊更に否定するのも違うし、ヒステリックな批判は有害無益だ。不安感や議論はクローズドな場面や私信にとどめる方が安全だし、あなた自身が被るいわゆる炎上リスク、大衆の理解力や混乱の可能性、反発される不快さなど考慮して、SNSなど外向きの発信は基本的には事実ベースの情報交換などにつとめ、沈黙するのが妥当と思われる。どうしてもSNS離れが難しいなら、たとえば学びなど他の生産的目的での発信者や企画に参加して没頭し、結果として不安な気持ちでスマホやPCに向かう比率を下げるというのは有効なはずだ。
予想される流れ
感染者識別は難しい(新型コロナの意味ある定義はあるのか?致命的な肺炎の元になるウイルスだけを既存のコロナウイルス他と都合よく区別できるのか?まあ偽陽性は凄く多くなるだろうから大混乱になる)し基本的に意味をなさない(理由は治療薬がないから。仮に不顕性感染者含めた感染者が少なく、完封を狙える状況なら「全数検査→隔離」は確かに有効だが、もはやそういう状況ではないし、初期にそれが可能な環境にあったとも思えないので、わたしはこの点について政府や当事者を詰める気は起きない)。やるなら、移動制限後、無作為抽出による地域状況推定と比較を公衆衛生政策に反映させるためのデータ取りという位置づけが第一義になるだろう。
検査などによる感染同定による隔離は、たいして意味をなさないし、潜伏期間を考えれば割にも合わない(それなら鎮静化に十分と想定できる期間を基本インフラ以外のほぼ市民全員を外出禁止にした方が、期間を定められる点と接触なしの感染制御への寄与が明確になるという点でよほど有用。だが今の本邦なら他国のデータを待てるかも知れないという判断もあって舵取りは難しいと思う)。もし大規模な感染拡大シナリオへと進むなら、間違いなく維持しきれなくなるので「不可能」と考えてほしい。そうした危機を折り込み先んじて、トリアージや、非常事態宣言の強化指針など「合理的」に規制として取り決めできるなら苦労はない。平時から「合理的合意形成」をもっとやっておくべきだったが、これは今後の課題だ。
一応、高リスク者を家から出させないなどして、感染経路から遠ざけることに成功すれば、総死亡を減らせる可能性がある。が、これに公費を大量に投入する決断を安易にすると、それを維持しきれない結果に終わりかねない。そうした事実の大衆への伝わり方次第では、感染症そのものよりも、社会不安の爆発的拡大再生産による不可逆な大ダメージが同時多発的に発生するリスクの方が高い。
私見だが、総じて、現時点の政府対応は、少なくとも一極集中の進み過ぎた本邦の感染制御としては、納得できる水準ではあると思う。それで十分かと言われれば、肯定はできないが、完全に非難されるほどの失策ではないと感じる。むしろこれからが分水嶺になるが、その準備がどういう状況なのか、わたしは知ることができる立ち位置にない。
少なくとも、市民感覚と他国比較で言えば経済政策がヌルくて遅くて不十分というのは事実だろう。今回のような飲食エンタメ中小事業者の売上壊滅必至という状況では、適切な経済政策も広義かつ実践としての感染制御に含まれる筈だ。とはいえ本邦国民の性質やこれまでの災害対応を考えると、あまりにいつもと違うやり方をすることで、別のメッセージになってしまう可能性は確かにあるので、細心の注意が必要ではある。
水面下で、合目的で整合的な大規模施策の準備が進んでいることを切に願う。
おわりに、わたしの考える封じ込め出口戦略への抜け道
医療的な観点から、ワクチンや抗ウイルス薬が(仮に有効なものができたとしても)効果は限定的かつ懐疑的、むしろ危険性のレートを高める(強毒化と薬剤耐性を併せ持つ変異ウイルスの蔓延など)リスクがあるので、完全な勝算(あるいは窮地での最後の手段としての使用指針確立)なしでの無秩序な使用は避けたいと考えていることは前述の通りだ。
それ以外の道筋としてわたしがこれから示す案は現状から見れば現実離れした空論に映るだろうと思うが、勇気を出して書いてみる。とはいえ、メインアウトカム「死亡アウトカム回避」、主要代用アウトカム「免疫暴走と肺炎の急性増悪」から逆算すると「全家庭への無菌室パッケージ配布と炎症抑制治療による各個持久戦」くらいしか、わたしには思いつかない。
要は、漫画ブラックジャックの持ち運びオペ室みたいなところで、炎症抑制の薬を使うなどして持久するというイメージだ。感染時ステロイドの安全な使い方を確立するなども有望と思われる。温熱療法や漢方なども検討して良い。中華のように病院をつくって強制隔離するようなことは難しいので、治療最小構成の量産化および配布というやり方が本邦ではむしろ現実的だという判断だ。これは入院治療の在宅化に過ぎず、治療ガイドラインが確立され、トリアージの概念共有と実施が秩序を持ってなされる体制が大前提であることはいうまでもない。
これが現状で空論に思えるならば、まさに「こうした大前提が今ない」からに他ならないからだろう。逆説的ではあるが、物質的な備え以前に、まず意識を整える、ある種の心構えを一段跳躍した「覚醒」が必須であるという証左ではないだろうか。意識は各人に属するものなのだから、こればかりは政府や行政に責任を負わせるのでなく、真に官民一体でないと意味をなさないし、実現もできない事柄である。より正確にいえば、個人の覚醒と共同体伝播による地方や国家レベルでの相転移が必要な状況である。
この「個の覚醒からはじまる全体の相転移」には、初手が極めて重要だ。理性的な意識状態をもってなお、不安の発火の方が合理的にも妥当というような大衆意識が支配的となる状況では、大混乱だけでなく、再起不能の大失敗となるリスクがある。持久戦の勝算について、市民レベルに至れない大衆にまで納得感と、信頼可能という印象を持たせ得るだけの仕掛け、舞台装置が必須であろう。そうした逆戻りできない究極的な意志決定について、地方や国家のリーダーに「決定的な引き金を引かせる」には、市民、国民の信任、安定した支持と創意工夫やマンパワーの持続的供給の見通し、確信が不可欠だ。結局、政府と民、どちらが先ということもなく、相互自発的に起動されることが必要だろう。
まず相互信頼の前準備として「カネ周りの問題」と「衣食住の問題」についての具体的ケアは、事実の裏づけをもとに、大方の国民の想定する以上のものを約束するところからはじめなければならない。当然、平時と同じ体制での約束履行が難しいであろうことは、いかに大衆でも察するはずだ。そのタイミングで、国家という根幹組織が国民に対し、協力要請と理解を求める。しかしその実態は国民にとって有利かつ(完全でなくても全体として)実行可能と思われる「取引」でなければならない、ということだ。とはいえ意思表示と住み分けを促す「選挙」を必要とするようなことにはおそらくならない。緊急時に一丸となる本邦国民の習い性は健在であると思われるから、青写真とスローガンと初期着手プレイヤーの確保を整合的にぶち上げられれば次の段階へ進むことはできるだろう。
こうした「非日常への移行」を宣言する際、まず確認されるべき課題は社会基盤の見通しだ。調達、生産、物流、処理といった市民生活の維持そして特時体制の構築と運用の計画が確固として存在しなければならない。
計画とはいえ、それは、未知の未知を踏まえた、大局的、総合的な全体最適の観点から役目役割を振り、持続可能なローテーションを組み、変化対応と矛盾しないものである必要がある。例えば、物流車両優先の交通制限や制限速度の緩和などで、同じ物流体制で多くの効用を可能にする。営業店舗の間引きと、物流拠点としての一時転用など、検討される段階と思う。
それ以外の(緊急時目線においての)不要不急につぎ込んでいた多くのマンパワーや時間的リソースは、感染リスクの排除された形式における教育、エンタメや価値提供の立ち上げに注ぎ込むことを奨励する。遠隔サービスを大胆に組み込んだ共同体の再設計、コンセプトを国策として打ち出して、経済の抜本対策の柱のひとつに据える。
ここで打ち出したいのは「一極化都市東京圏の存在と繁栄を前提とした集中拡大路線」から、高齢化と人口減少時代を見据えた、「圧倒的なユニークネスによる強みを裏づけとした、全体では穏健な経済循環」への転換だ。
歪な「地価ベースの一極集中型国家と首都圏集中」から、「情報的ポリス型共同体群の共生交易への転換」は、感染症だけでなく、さまざまな自然災害をその宿命とした我が国にとって、今後百年千年のオーダーで真に価値をもたらす維新となるだろう。これは今回のコロナ災禍と関係なく、医療者として、薬剤師として、そして子を持つ親としての悲願でもあった。
このような理念・コンセプト(別に、国民の合意に適う理念や青写真があるなら他のものでも構わない)から逆算した、より健全な市場原理をもたらす通貨環境と秩序形成、そのデザインおよび設計こそがこのパラダイム変換、物理的都市計画レベルの道筋を進める鍵となるだろう。事業者給付と支援はこの前準備という観点から戦略的に行い、変わりゆく未来の足を引っ張るような死に金にはしないと決める。歴史的転換という規模に応じたリターンが期待可能な投資、事業計画の一環として実施するのだ。この動きは、各人にとっては個人稼業であり、国家としては国家戦略転換であり国策となるのだ。
そうした時代の潮目への意思表示として、この逆境を逆手に取ってやればきわめて痛快である。難局の本義的克服を「皆が求める理想世界からの整合的逆算」として定義、提示できるのであれば、いかに現状が困難で、達成目標が遠大なものに感じられたとしても、実行に移すだけの一貫性と値うちがある「戦い」にできるものと確信する。
わたし自身、特別な肩書も持たない微力な存在であるが、そういう気概で日々の役目役割へと取り組む決意を、いま、ここに新たにするものである。