第7話 1種 ルール重視タイプ(外向き)
〜嘘をつくハードルはたいへきによって違ってくる〜
ちま「次は1種ルール重視タイプ(外向き)です。
お待ちかね。理屈っぽい主人のたいへきですね」
主人「ザ・1種として紹介されたことがあるよ(DOYA)」
ちま「わかる。めっちゃわかる」
主人「俺自身、完全に同意する。それはそれとして……
1種の思う『正しさ』は、普遍的なもの
1、2種は『善悪』や『良し悪し』の尺度を一番重要視する軸だね。
好き嫌い(3、4種)、損得(5、6種)、勝ち負け(7、8種)、自分の執着(9種)なんかに左右される正しさは正しさじゃない!
と1種は思っている。いうなれば『普遍的な正しさ』が1種性のキーワードだね」
ちま「ちょっと待って! 君はルールも文化的な慣習も守らないじゃない! それで正しさが重要ってちょっとわからないよ」
主人「1種の正しさはそういう倫理的、通俗的な、厳密に整合性の基準を満たしているかどうか怪しげな『通念的正しさ』と違ってちょっと突き抜けているんだ。
既存のルールがあった時、『もっと正しくできる余地があるはず』と逸脱を考えだす」
ちま「それって結局、マイルールじゃん!」
主人「正解だね。
突き詰めて論理的に考えた上での結論でありマイルールだからこそ『通念的な正しさ』なんかより上位なんだよ。端的にいえば『懐疑主義』だね」
ちま「懐疑主義って、内向きねじれの8種性とは違うの?」
主人「8種性は『反抗するぞ』という結論ありきで、対象となる相手に焦点を合わせ踏ん張って力を発揮する感じだね。
1種性は、結論も相手も最初からはあまり定まっていなくて、ただ『より整合させたい』という、ある種の真摯さと漠然さを基盤とした、プロセス模索型の懐疑主義なんだ。
だから、論理プロセスたる理屈を重視することになるんだな。
要するに、1種の人が求める正しさとは『既存の枠組みを超えた正しさ』なんだ。それを愚直に求める上で、結果的に浮世の価値観と違ったところを重要視するに至ることが多い。
1種性は『本質への跳躍』こそ最重要だと本気で考えるから、基本的に既存通念に懐疑的になって、思考と検証を尽くすわけだ。逆説的に言えば『現状というものは思考と検証が尽くされていない』という観点だね。
真理を探究する学者なんかには『まさに1種』な人が多いけど、とくに1種性の人は検証よりも思考に重きを置くタイプといえる」
ちま「確かに学者っぽいイメージはあるね」
1種と2種の違い
主人「一方で、裁判官なんかは2種だね。既存のルールの精神を遵守し、緻密で妥当な運用をすることで秩序を得ようとする。
ルールといってもとらえ方に傾向があって、
1種は自然科学などの普遍的現象として、
2種は律法などの人為的前提として認識している感じだ」
ちま「たしかに、同じ『ルール』でもその二つはずいぶん違うね。でも、1種性も2種性も、ルール重視という軸では一緒なんだね」
主人「そういうこと。1、2種の軸はそのような感じだね。中でも1種性は、いかに『より確からしい正しさ』であるかを大事にする。より正しくありたいと懐疑し、自問自答し、論理的思考で考え続ける。
だから1種性は、好き嫌い(3、4種)、損得(5、6種)、勝ち負け(7、8種)、執着(9、0種)に左右されるような正しさは真の正しさじゃないと考える。既存ルールもひとつの条件づけだと位置づけるから、2種性にも一定の距離を置いているといえるね。
1種が思考できなくなったら・・・? たいへきは生まれつきではない
主人「1種性優位の人は言葉で考えることが得意で、抽象思考に習熟し、突き詰めたがる。日々思考し続けるので、言葉に敏感なんだ。自覚できる思考のほとんどは脳内の発話、自問自答だからね。ふだんから突き詰めるから言葉の扱いに習熟してるし大事にしている。
もはや言葉がなくては、理論的思考は無理ってくらいに言葉や論理を重んじる傾向がある。その根底にあるのは言葉や論理の限界を突き詰めたいという執念かもしれない」
ちま「じゃあ、もし1種の人が言葉を学べなかったら・・・?」
主人「俺もそれは考えたことがある。文字が学べなかったとしても、頭で思考はするだろうね。
主人「逆に、何らかの事情で言語能力や思考能力の多くを後天的に喪失したなら、1種としてのアイデンティティのほとんどを失うと思われる。
完全に進行しきった認知症でかつ卓越した1種性、ってのはちょっと想定しづらい。知識も論理も超越してなお正確な判断ができるというのは、人を超越した能力に思えるからね。
もちろん、局所的にそうした事例があっても驚くには当たらないけど、やはり1種性とは異質のものだと俺は考える。
これは、俺が教わった『体壁論』での『たいへきは先天的で変わらない』という見解に対して異論を抱く契機となった思いつきになる。ただ、認知症が進めば1種性は完全に失われるのか、といえば、そうでもないとも考えている」
ちま「というと?」
主人「そうだね『思考のプロセスが喪失されて、偏見と断定の権化になる』などはあり得るな。
言葉も論理も使えないなら、怒りと満足の表現くらいしかできないかもしれない。
もちろん、思考や脳内処理のプロセスを読み取るのは難しい。内的な整合性の有無や、どんな形式や意味を取るか、内的処理の座である思考主体の脳に直接リンクしてない他者にはわからないし、もっといえば自分自身でもわからないんだ。
もし『思考のプロセスが喪失されて、なお行動や判断の整合性があった』としたら、内的な言語、あるいはそれに代わるなんらかの体系があるはずだけど、残念ながらいまの俺には想像もつかない。
もしかしたら粘菌が迷路を動くような知性の形かもしれない」
ちま「あの粘菌の実験の話。面白かったね(→リンク)」
主人「いずれにせよ、思考プロセスの根幹たる言語機能や論理性が激しく損なわれたら、とても他者に受け入れられるものではなくなるだろうね。それこそ完全にマイルールだ。
いや、ルールとしての整合も怪しいな。場当たりの快不快との区別すらつけられなくなるかもしれない。たとえ記憶が健全で内的な整合性が担保されていたとしてもね。
単純な規則性程度なら他者も読み取れるかもだけど、それってもはや人間性を逸脱してると思うし」
ちま「言葉や論理という枠組みがあるからこその1種性、というわけね」
主人「その通りだ。概念の扱い方の整合性、それは形式的枠組みである言語や概念の扱いと切り離せないもので、それこそが1種性のポイントということだね。
もともと言語や概念は共有の道具だからね。その機能の性質上、整合性は普遍性ベースになるから、自分だけを特別扱いはできない。もし特別扱いしたければ、それ相応の理由や大義が必要になるな。結果としてそれなりの臨場感を持ってエリート意識や自己優越感に浸る1種の人は決して少なくない。実力と実績を伴うか、単なる正当化なのか、それは各人の品性によるところだと思うけど。
まあ、1種の場合、尺度の選び方こそ恣意的かもしれないけど、尺度の運用そのものは公平なんだ。少なくともその人の中ではね。
ただ逆にいうなら尺度の選び方は徹底して自由で、それが各人の意思の核心とすら考えている。だから独善的な要素は否めない。またそれを恐れないのが1種性の特性であり強みなんだ」
1種との付き合い方『理論武装』
ちま「うーん。単にマイルールを正当化してるのと、本当に画期的な新しい観点との違いを、ほかの人はどのようにつけたら良いの?」
主人「とても良い着眼点だね。結論からいうと、主張の中身と妥当性、すなわち『形式と意味の整合的対応の程度』を見れば良い。それは論理学やディベートの延長で『論を評価』するということだ」
ちま「なんだか難しそう。さすがにハードル高いよ」
主人「たしかにね。トゥールミンロジックや論理哲学、形式論理学なんかはもはや専門領域だしな。俺だってその辺を学問的レベルできちんとおさえているわけじゃない。でも1種性に1種性で対抗するとしたら、その辺りを踏まえるしかないというのが実情かな。
1種の人は1種性の枠組みでなら納得せざるを得ない生き物だからね。その人のこだわりや品性のレベルによっては不機嫌になったりはするかもだけど、そうした場合でさえ一定の理解はするんだ。
論理性は1種性における認識の土台だからね。だから論理性そのものの枠組みについての確かな知識や技量を養うことは、1種の人に対するもっとも確実な歩み寄りといえる。
1種は論理性を基盤としているから、論理のプロセスを尋ねられたら、基本きちんと答える。
論理性の大枠を踏まえて、あとはその都度相手に確認するのでも良いよ。あくまでも信頼できる関係性だったらだけどね」
ちま「やっぱり、敵対する相手だったら、こちらもきちんと理論武装しないとダメか」
主人「ま、そうなるね。論理性のキーワードは多岐にわたるから、とりあえず簡単に列挙する。
まず『データ、ワラント、クレーム』これはトゥールミンロジックの基本要素。競技ディベートでも使える議論の基本形式だ。
真理値、真と偽の判定、真、逆、裏、対偶、これらの関係性は、形式論理学の基本要素だ。
命題論理、述語論理、様相論理、これらの論理形式や、集合論、自然数論といった体系は、モデル化や論証のための道具だ。これらをベースにしたガチ数学の領域に踏み込むと、論理性というカテゴリの体系的理解が進むだろう。
あとはさまざまな法則やパラドクスを知るというやり方もあるね。まず全体像を知るという意味ではこちらの方が良いかもな。
あるいはより具体的なまとまりとして実践ベースで身につけたいなら、自然科学や社会問題など分野や対象を絞って過去の議論の流れを学び、そこから自分なりの思考を尽くすことを始めるという手もあるか。医療におけるEBMなんかは論題も資料も解説書も揃っているし、誰しも無関係というわけではないから手堅いかな。
いずれにせよ、さすがに膨大な体系になるから、簡単に伝えるにしても限界があるし、俺も改めて勉強が必要な領域だから、これらは別に伝えるよ。(→リンク)」
ちま「いわゆる学校のお勉強って感じはあまりしないね。難しそうだけど少なくとも暗記モノではないからかな。まるでパズルみたい」
主人「そだね。パズルやゲームは論理体系そのものだし、学校でそれらを意識的に構築したり遊んだりの機会はほとんどない。それらの楽しさや価値をきちんと伝えられる教員なんて珍獣みたいなものだろうしな。少なくとも俺は公教育で見かけたことはない。これは改善の余地が大いにあると思うけど、それはまた別に伝えるよ。
情報粒度
主人「で、大事なこと。これら列挙した要素たちは、まとめると結局のところ『いかにすべてを言葉、すなわち形式で微細に識別するか』という本義に結集されるんだ。
これを的確に示す概念として『情報粒度』というのがある」
ちま「それなに? 字面で考えると、情報の目の細かさみたいなもの?」
主人「その通りだね。簡単にいうと、色のグラデーションや画像解像度のような概念だよ。たとえばパソコンモニタの解像度が高ければ、より細かな映像をきちんと映し出すことができる」
ちま「YouTubeの720pとか1080pとか、HDとかフルHDとか4Kとかってアレね。わかる。
フルHDはHDに比べて綺麗だけど、データが重いよね。うちには4Kモニタがないから、フルHDと4Kの違いは残念ながらわかんないや。電気屋で観た限りスゴいな、と思うくらいで」
主人「そうそれ。PCの出力先であるモニタは、ヒト認知においては脳内内部処理のシミュレーションに置き換えることができる。ヒトは外部情報を直接に知覚しているのではなく、脳内処理を介して間接的に認識しているわけだ」
ちま「つまり、外部状況の情報をそのまま全て受け止めているわけではないってことか」
主人「そう。もしそんなことができたとしても、処理がパンクしてしまうだけだろうね。だからヒト脳は、予測や説明という形で『省略』した処理をすることで負荷を下げているんだ。
これは、錯視や錯覚が再現性をもって生じる理由でもある。
で、こうした知覚レベルと同じように、情報量の劣化や落差は言語概念の伝達レベルでも起きているわけさ」
ちま「その劣化や落差の指標が『情報粒度』ってわけね」
主人「その通り。
たとえば虹について考えるとするよ。虹という自然現象における色のスペクトルは共通だけど、それを七色と思うか、五色と思うかは、各人のもつ色概念によるんだ。
要するに、いくつの色を言葉として知っているか、識別することができるか、それは色概念の『情報粒度』といえるってことだね」
ちま「同じ眼、同じ脳を持っていても、違いが出てくるんだね」
主人「そう、これはハードウェア性能の違いではなくて、ソフトウェア機能の違いなんだ。
色みたいな基本的な概念は、ふつうは生まれ育った文化圏の影響を受けて形成されている。でもあとで識別子として追加の色概念を学びさえすれば、その色の違いを認識できるようになるんだ。
これが『粒度が上がる』ということだ。
この構造を、言語概念や抽象想念の感覚全般について、いわば『言語化できないモヤモヤ』の解像度にまで拡張して考えるとなると、どうなるか、って問題意識こそが、1種性の根幹なんだと俺は思う。自意識とか認識について、自己言及的な探究を突き詰める感じだね。
以上は、プラトンの『国家』における『洞窟の比喩』(→リンク)を原型に、自意識という確信対象をヒト認知の現象面から俺が捉え直したものだ。本来『洞窟の比喩』はイデア論の説明を目的としてるけど、俺自身は当然イデア論そのものは採用してない。ただ、いくつかの重要な要素を的確に示した秀逸なたとえ話だと考えていて、その文脈と構造を借用させてもらったのさ。
俺が少し逸脱して解釈したのは、現代ならではの脳神経科学的な知見を踏まえてといったところだね。時代背景を考慮すれば、まさに至言だ。さすが時代をこえて語り継がれた古典だよ」
ちま「ところで『洞窟の比喩』ってどんな内容だっけ?」
主人「モデルの具体的な話はリンク参照(→リンク)だけど、端的には『ヒトの認知能力が不完全であること』を示しているんだ。俺がとくに重要だと考える点を言うと……
・ヒトは『影』を通じてのみ間接的に物事を知ると、『影』を現実だと思い込むということ。
・『太陽の光と実像』を知り、説明を尽くしたところで『影を現実だと思い込んでいる者』には受け入れられず、むしろ光を知ったことで『影という現実を理解できなくなった』と蔑まれたり警戒されたりして、コミュニケーション不全に陥ること。
主人「これら『洞窟の比喩』のポイントは、たんに実体の認識だけではなく、思考や想念、それらを説明する言葉や言語体系を含めた認識力全般に拡張できる構造なのではないかというのが、俺の問題意識だ。
それは『じゃあ、1種が言葉が学べなかったら?』という先ほどの問いにつながるところだと、俺は考える。識別能力とは何か、その土台たるヒト認知とはいかなるものか、ってね。
行き着くところは『情報粒度』をどう認識、理解、運用するかの問題になるだろうね。また、それは言葉の解像度をこえるレベルでなされる必要があるとも思われる。考え事の延長でない技術論が欲しい。神経伝達物質や薬の効果を基準として、禅や瞑想、その他なんでもアリで探究したいわけだ」
ちま「ものすごく飛躍してきた……
これが1種性の暴走なのかw」
1種は嘘をつくか?たいへき別、嘘のつきかた・使い方は?
主人「ともかく、1種を一言で言うと、『何事も懐疑的に、どこまでも考える理屈っぽい人』と言うことができるだろう」
ちま「それって『より正しく』と言う大義名分に則って、マイルール・作り放題ということでしょう?
その卓越した論理性を使って嘘をつくというパターンもあるんじゃない?」
主人「まあ、なくもないね。嘘をつくかどうか、その傾向なんてとても一概にいえるものではないけど、典型的なパターンを想定することはできなくもない。
どういう流れで嘘という齟齬ができるか、ひとつ考えてみようか。
先にも話した通り、1種性の正しさ、その普遍性の矛先が向けられるのは自分も例外でない。『真摯な懐疑主義』という整合性の縛りがあるから『自分にも嘘はつけないが、他者にも嘘がつけない』という感じかな。
まったく嘘をつかないわけじゃないけど、嘘をつくハードルはかなり高いといえる。自分も他者も騙すか、あるいは誤解するかというパターンが基本形で、自分だけ、相手だけ騙す、誤解させるというのは1種性に反する。
現実問題の葛藤を前に、妥協的に他のたいへき種が発火して嘘が出るというところかな。
対照的に、嘘をつくことにハードルがないのはわかりやすいところだと3種性だな。というより、反射的過ぎて『嘘と認識する前に発生』する感じだ。
だから、稚拙な嘘をついたかと思ったら馬鹿正直だったりする。そして、その場でハッキリと指摘しないと効果がない。
とぼけて見えるけど、そうでなくて時間が経過すると本当に臨場感が薄れるから響かないんだ。それって3種性そのものの特性だからね。
重要な契約とかなら、しっかり言質を書面で取るべきだけど、そういうのは基本的に3種性が嫌悪するところだね。
もちろん各人が社会経験を積んで大人になる中で、それぞれの社会経験なりに克服されていることがほとんどではある」
ちま「へーえ。そうなんだ」
主人「突き詰めると『そもそも「嘘」って何?』という話にもなるけど、ただ論理で詰めても1種性で丸め込んでいるような印象は拭えないだろうから、外堀から埋めて説明するか。
以下、それぞれのたいへき種における典型的な『嘘』のパターンを列挙してみるよ」
ちま「なにそれ。面白そう」
主人「じゃあ既に出た1と3以外を考えてみるね。
2種は『決まりなので』といって『ツケ回し』する感じ。規制の運用を恣意的にやることで嘘をつくパターンだね。これは権威に責任転嫁する2種性の現れだ。決まりや権威には不完全さがついて回るから、それが現実をきちんと治めていれば信頼感につながるけど、安易な現実主義とくっつくとたちまち堕落して『免罪符的な嘘』になるわけだ。
4種は、理解を示すが実行のための各種調整に時間をかける『根回し型決断遅延』だね。これは旧来型の日本企業のハンコ並んだ稟議書みたいなものに象徴されるもので、結論が半ば以上決まっていても行われるところに4種性が垣間見える。
5種の場合、現代社会では嘘をつくハードルは高い。記録が残ったりしてバレた場合、長期的に損する可能性が高い、と判断するからだろう。海外旅行などでその場限りと明らかなら嘘をつくハードルは低くなるかもね。あとは圧倒的な利益が約束される場合とか。いずれにせよ『合理的な選択肢』のひとつとしての位置づけだね。
6種は『マイペースなやるやる詐欺』これは6種性の平常運転か。大志を掲げるが進まない。その一方でストレスを爆発させるなど、自らの可能性と周囲の期待を裏切る感じの嘘か。
7種は『嘘をついて勝てるなら嘘くらいつけ!綺麗事いうな!』という感じ。プロサッカーの反則アピールとかは試合の勝利を目的とした意図的な嘘だよね。でもチームの中でその態度に異論をとなえたら…… 俺とお前はどっちが実力上だ!?実力こそ正しさ!だから嘘ではないんだ!丸呑みしろ!といった風に続くと思われる。逆にこちらの実力が上だと認められたらこちらに従う潔さも7種性だけどね。
8種は想定外の逆理を突いて来る可能性が高い。ねじれての苦し紛れを本当にしてしまう感じだ。あとは極論を引き合いに出して押し通すとかね。かえって相手が苦しくなるように仕向ける感じだ。相手の意見をひっくり返したいというより、決裂を示して独立独歩の道をいく意思表示だから、なんか少し嘘とは違うけど。
9種は正しさに対する感受性そのものが低いかもな。素で『それぞれの正しさがあるよね』とか言いそう。これってある意味二枚舌どころではなくなるな。しかも9種性の内的感覚、美意識が指標だから他の人からすれば一貫性を取り難いことこの上ない。まあ、そういう9種性の個性を隠蔽しているケースは少ないから、周囲からすれば既にそういう人だと織り込み済みで、騙された感はあまりないかもしれない。
0種は『同じことだよ』ってあっけらかんとする感じだろうね。なんでも嘘だし、なんでも真実だって達観を見せるようなイメージだ。そしてこれは確かにその通りなんだ。あらゆる二元論と同じく『真実か嘘か』なんてのもヒト認知のなす幻想の産物なわけだね。この達観の構造を分け隔てなくいつでも適切に淡々と示せる度量に他のたいへき種は感じ入ることも少なくない。
これらと比較すると、1種性の嘘って、嘘にしても高いリアリティと筋が通った理屈を備えたようなものになるかと思う。おそらくはより確からしい真実に至る『方便』としての『騙し』になるのかな。大義のための嘘やタテマエみたいな。あくまでも大義の採用基準は自分になるけどな」
1種の大切な大前提『共役性』(立場が入れ替わっても成り立つ正しさ)
主人「結局、1種は『より条件のない正しさ』を求めるんだよ。この『条件のない』正しさというのは相当な難問だ。現実の存在というよりは空想の産物だね。
1種性が志向するのは『より条件によらない確からしさ』なわけだから、おれだから、お前だから、男だから、大人だから……というものではない。
いわば自然現象全般だな。それは間違いなく現実存在だけど、今度はそれを余すとこなく把握しきれる枠組みがないという問題が出てくる。たとえば物理学の統一理論はまだまだだし、その方向性でどこまでいっても、モデル化した圧縮であって、現象そのものではないのだからね」
ちま「そこまで客観的に把握できていて、それでも正しさを押し通せるものなの?」
主人「そうだね…… まあ『普遍的な確からしさ』ってのはそういうものだから仕方ない。
これは覚えておいて欲しいのだけど、1種の考え方の根本には共役性がある。共役性というのは、『互いが入れ替わっても成り立つ』ということ。これは騙しの場合も一貫している。この『騙し』はアリかナシか、って判断において、互いに入れ替わったと仮定して妥当性や納得性を検討する感じだね。
1種がフェアというのはそうした意味合いなわけだ。
もちろん完全にバイアスがないわけじゃないから、気づかない偏りもあるけれど、1種性ではそういった構造は織り込み済みなんだ。現実の情動はさておき、少なくとも知識や道義のレベルではね。
だから指摘があれば『より正しく』是正していく。是正の重要性こそ普遍的テーマと思っているから、他者の是正の申し立ても受け入れる。具体的には、1種の人の長話に割って入っても、それが内容的に真摯なものであればむしろ喜ぶし、少なくとも吟味しようとする傾向にある。同様のことは、自説の考え直しにも当てはまるから、必要があれば自分も正す。
それが1種性たる『真摯な懐疑主義』なんだよ」
1種の弱み『なんでわからないのかわからない』
ちま「なるほどね。納得できた。1種の特性から来る弱みというか、注意点ってなんだろう。単に理屈っぽいというのは除いて」
主人「思考や感覚の基準を自分に揃えてしまうのは他の種もそうだけど、環境が入れ替わった場合が想像できても、知性が入れ替わるというのは想定しにくいものだ。
1種性の場合、先ほど話した意識的なポリシーとしての『共役性』と、この『無意識に自分を基準にしてしまうという主観の性質』がコンタミされる。簡単にいえば、1種性の高い理解力を他者にも期待したり、当然のように要求したりしてしまう。
例えば誰かから『小学生にわかるように説明して』と頼まれても『俺は小学生の時から同じように考えてたからわからん』と本気で思う感じ。もちろん自慢したいんじゃなく、本当にわからないし理解したくもないという気持ちなんだ。
『当たり前に正しいのが、なぜ分からん?』という感覚を『正しい』と思うが故に直接押し出していく心理だ」
ちま「うわー。ある意味すごくポンコツさんなんだね」
主人「うまい物言いだね。1種の人は他の種の人も1種並みに文章や物事が読める、というより読めるべきだと思っている。契約や書面なんかはそうだね。
難解でも材料がありさえすれば他の種の人も読解可能だと思っているようなところがあって、その認識がスタートラインになっている節がある。
理解が『可能なのにしない』のは、怠惰であり自己責任だと見下すようなところがある。そうした考えが孤立や独善につながることは少なくないな」
ちま「だからか。1種性には指摘癖があったり、説教臭かったり浮いた言動が目立つわけかあ」
主人「そうだね。より確からしい正しさを求め、懐疑主義を基盤にすると、どうしても空気を読まない場面を免れないことが多くなる。
だけどすべてが1種的な『厳密な懐疑主義』で染まってしまうと、それはそれで種としては決定的な脆弱性になるのも事実なんだけどね。その辺は先ほど伝えた通りヒト認知と1種性の盲点になりやすいんだ。
例を挙げると、3種の人は文章に臨場感がないことが多いので、契約書とかの抽象的概念の入り乱れた文章の読解が苦手な場合が多いんだけど……」
ちま「ノリでOKしちゃって、あとで『聞いてない!』って手のひら返し。いかにも3種性の瞬発力から出てきそうな反応だね」
主人「そういう3種性も、生命原理や進化の観点から考えれば必要な形質なんだから、完全否定したり根絶すれば済むというものではないんだ。1種性をより深く踏み込めばわかりそうなものだけどね。
だいたい他者の頭の中は覗けない。限りなく整合性をもって厳密に推定できたとしても、断定で言い渡すに足る客観証拠なんて存在しない。せいぜい自分の見解を強く誇示する『断定的表現』に過ぎないわけだ。
表現的威圧は1種性の本質である『真摯な懐疑主義』からすると微妙なんだから普段は控えた方が、いざというとき効果的でもあるわけだし」
ちま「なかなか合理的じゃん」
主人「別に妥協というわけじゃないんだよ。意識の解像度なんて比較できないし、ましてや単純化されたテストの点などで比べきれるものでもない。
すべて脳の中のモヤモヤの話なんだよ。
1種の人は、そのモヤモヤ、想念の齟齬をなんとかしたくて、共有可能な道具である言葉を使って頑張っているわけ」
ちま「わーすごい。そうは言っても、君が特殊な1種で、特別に理屈っぽい。という可能性はないの?」
主人「他の1種なんて俺よりはるかに頑固だよ!?
本来の1種性は『保留なんてせず、妥当性あるプロセスから導かれた結論一辺倒』なんだから。
公平に見て、俺は1種としては保留する方だな。それは6種性も持ち合わせているからだよ。もちろん、尺度と基準が更新されなきゃ結論は動かないけどね。これは他の1種と一緒」
ちま「保留しても動かないんかい!」
主人「1種性と2種性を合わせ持つと、解釈の自由度が増す。1種性特有の頑固さは薄れるけど、2種性的なイメージ操作から、ああ言えばこう言う、という感じが追加される」
ちま「まさにそれね。手がつけられないw」
主人「まあそれも、旺盛な知的能力や冷静な精神性あってこそなんだけどね」
ちま「そんなの、いったん身につけてしまえば勝ちみたいなものじゃない?」
主人「いや、加齢などに伴う知的能力の退行において、どのような形質を活用していくかというのは、人生戦略の大きなテーマのひとつだね。それはたいへきでもいえることだ。
いつまでも1種性の現れである論理面の知的能力でゴリゴリ行くのでなく、3種性の現れである情緒的な感覚の側面としての知的能力にシフトしていくことも、幸福度を高める上で有効かもしれないと思う」
ちま「ああ…… 妥当性の担保がない正しさの押しつけなんて何のメリットもないばかりか、周囲が辛くなるだけだからね。自立した個人の集まりだと孤立一直線だよ」
主人「そういやこんなのもあったな『「哲学実技」のすすめ そして誰もいなくなった』って本だけど、まさに1種性のカタマリみたいな主人公が哲学教室を開くんだけど、被験者が次々去って、文字通り誰もいなくなるんだよな」
ちま「www
きみは気をつけてねw」
1種をはじめとした、奇数種別「正しさ」
主人「(無視して)ともあれ、正しさについてまとめると……
1種は条件によらない正しさを求める。
3種は好きな人が言ったりやったりしていることが正しい。
5種は利益が得られるなら正しい
7種は勝てれば正しい
9種はこだわりに則していれば正しい
偶数種は明確な『正しさ』よりも『間違っていない』ことを重視する傾向にある。
こんな感じかな(演説は続いている……)」
ちま「みなさん!これが1種ですよ」
主人「長文拝読ありがとうございました」
※ 1種さんは相槌ナシでも関係なく喋り続けることができます。
そして不意に相槌を挟まれてもたいてい怒りません。