たいへき 第8話 2種 より正しくありたいと正しさを深掘りする

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ちま「2種性も1種性と同じく『より正しくありたい』がキーワードなのね」

主人「そう。『より正しく』は1種2種の共通テーマといえるね

ただ、あくまでも2種性の『より正しく』は規律ベースなんだ。どちらかというと『間違いたくない』という欲求といえる。ルールもなしに『より正しく』と叫んでも言ったもん勝ちになるだろ?
だから2種性を語る上で特に切り離せないのが規律の概念なんだ。

規律というと人によって良いイメージも悪いイメージもあると思うから、具体的な2種性の話に入る前に、まず規律という概念のすり合わせをしようか」

ちま「そういう言葉の定義を詰めたがるところがきみの1種性だよね」

主人「そうだね。話を遮られてもムッとしないところとかもねw

話の前に・・・『規律』の意味のすり合わせ

主人「これは、『是正したい』という1種性の意識が、他者の是正をも受け入れる土台になっていることに起因する。
何度か話に出ているけど、この『自分のポジションを基準に他者の尺度を想定する』のは、たいへき種に関係なく共通するヒト自意識のポイントだね。

自分のたいへきは各人の生得的な偏りの標準形ではあっても、普遍的な最適形というわけではない。最適なのかどうかはあくまでも『その場その時その人それぞれ』で変わってくる。それに情動の発火にせよ人間性の発露にせよ、その都度生成されるものだからね。

ヒトの自意識は『己が知覚する何もかもをあたかも確固たる実感のように認識する』けど、それは『予測・説明ベース』というヒト脳の処理形式に由来するものなんだ。結論ありきで省略しながら処理することで、限られたリソースを最大限活用するデザインになっている。
だから当然、錯誤も誤謬も多く出てくることになる。そうしたボタンの掛け違いを放置したままでは、整合的な学習や長期的成長はとてもおぼつかない。

そのハマりから抜け出すためにすべきは、自他のポジションについて認知し、識別と構造理解を進めることだ。『識別すべき要素』と『その判別式』を見出し、それらを意識にあげて有効な対処につとめることが必要になる。中でも『意識にあげる』プロセスは重要だ。まずモノサシを使うことを思いださないと、意図をもっての比較も訂正も始まらないからね。

そもそも『たいへき』というタイプ論だって、各人が『意図をもって決定』するための前段として『価値観の違いを意識にあげる』ための枠組みだ。少なくとも俺はその考えのもとで説明してきたし、ちまが必要性を感じるまでは『ためになるからたいへきを学べ』と紹介したりすることは控えていたんだ。

ちま「次女の内向きねじれを『8種性』というたいへきの枠組みで教えてくれて、そこからの流れだったもんね。でもこんなに使えるなら、あらかじめ教えてくれたらよかったのに。もっと早く知りたかったよ」

主人「まあ気持ちはわかる。だけどそれは今のちまがたいへきの価値をわかっているからこそ出る発想なんだよ。ちまにとって明確な葛藤や必要性が見えてないのに、海のものとも山のものともつかない『たいへき』という方法論の提示だけしても、押しつけになるリスクがある。

まあ、俺らの関係性だと聞く耳を持ってはくれたと思うけど、今のような深い肚落ちには至らなかった可能性が高い。もともと『たいへき』って複雑でマイナーな概念だし、実験や測定ではっきり見える領域の話でもない。いわば人間感覚の説明原理といえる体系だから、デリケートで伝え方には注意が必要だと思うんだ。

日本の教育現場は2種性が高い

それはそうと、2種性の規律の話だが……
端的な例をあげると『典型的な日本の教育現場は2種性が高い』といえる」

ちま「規律がしっかりしていて素晴らしいってこと?」

主人「いや、そういう側面もあるけど、逆の観点だ。高い2種性がそのまま歪みにつながっているんだ」内発性の観点が抜けていて空虚化している。外面的、形式的なものになり下がって、内発性という本質を見失っている。端的にいえば、自治が形骸化している学校がほとんどだと思うよ」

ちま「まあわかる。意味不明の校則なんかもあるしね。あれはダメ、これはダメが多いイメージ」

主人「一応補足しておくけど、学ぶ側に規律は必要なんだよ。教える側への敬意とかね。ちまも何かを学びにセミナーに行って、講師の先生に失礼がないように振る舞うだろ?」

ちま「そりゃあそうだよ、価値があるからわざわざ学びに行くんだし」

主人「それが日本の学校、公教育では向きが逆になっているのが問題なんだ」

ちま「逆?」

主人「教える側、つまり教師の方が『学ぶ側は教える側に敬意を持ちなさい』と強要してくるんだ。簡単に言うと『子どもは先生を敬え』とそれを考えるまでもない当然のものとして強いる。まるで体育会系の同調圧力のように有無を言わさないような事例も決して少なくない」

ちま「そうだね。少なくとも、教師と生徒が同じ立場に立ったりはしないよね。学科の教師が生活指導もするのが当たり前だし」

主人「ここで質問だけど『子どもと学校』と『大人とセミナー』これ関係性に大きな違いがあるよね。それってなんだと思う?」

ちま「えーっと、自分でお金を払っている??」

主人「そうだね。支払うというのは、5種的には価値を認めるということだw
ちまは自分から何かを学びたくて行く。自然と先生に畏敬の念を示す。
まあ、いい大人だし常識として相応の態度を取るってのもあると思うけど。

子どもにとっての公教育はそれとは明らかに違う。自ら参加することを選んだわけではないからね。本人もよくわからないうちに通うことになり、そこにたまたま赴任しただけの教師を『先生という立場だけで』無条件に敬うよう言い渡される。それだけじゃすまないこともたくさんある。

入学時、子どもの多くは無邪気に学校に行くことを楽しみにしているけど、規律を求めて楽しみにする子なんて例外的で、多くは単に見知らぬ環境を楽しみにしているだけだ。
子どもが2種性を学校生活で発火したり、2種性を刺激されるような教師や企画があれば幸いだけど、いかんせん学校生活というのは長くて密なしがらみになる」

ちま「うー…… それはそうね。あまり考えたこともなかったけど」

主人「そして、現行の公教育は、不適切なカリキュラムや教師の力量不足という構造的背景から、子どもの求める深掘りや脱線を受け付けられない。学びの土台としては明らかに中途半端なものだ。なのに時間も労力も過剰にかける。公立中学の放課後の部活動が内申書に響くという実質的な強制だったりな。そのくせ顧問教師は部活内容の素人だったりして、変なクセを子どもが身につけたりさせる。これは課外授業だけじゃなくて、メイン学科も同じで、とくに数学や英語はひどいものだ。教師は学級運営や授業が仕事であって、対象学科の専門家ではないという前提はある。でもそれでは教育指導要領に縛られるだけで、まともな反論や対処が能力的にできない。それは子どもの利益を守る実力がないということだ。

俺はなにも、今いる個々の教師をやみくもに責め立てたいわけじゃないよ。単に教師の資質や募集戦略を含めた教育デザインが現環境のニーズに応じられていないってことだ。もともと集団教育は富国強兵という目的において兵士や工場労働者を均質に大量に揃えるための手段で、現代に通用するようなコンセプトじゃない。

教師は選ぼう。思考停止教師を避けよう。

主人「それが今だに現状維持されているのには構造的な問題が大きい。だから俺たち夫婦も色々考えて独自に教育計画を立てたり、試したりしてる。それを子どもたちもくみ取って、敬意を払ってくれてる。そもそも教育効果のフィードバックをきちんと取るのに、子どもとの対話や『思い』の引き出し方は重要で、気をつけて関係性をメンテナンスしているしな。その辺はそもそも集団教育では難しいから、俺はもともとそうしたケアは家庭の領分と思ってるし、指導者を見た上で習い事に行かせたりもしている」

ちま「ピアノや英語の先生とは素晴らしい出会いだったし、くもんの教室は成長に応じて変えて本当に正解だったね」

主人「まったくだね。
だけど公教育現場の多くでは、教える側が学ぶ者の当然の態度として尊敬を強いる。しかも上っ面の態度から内的プロセスを期待するというきわめて安易なやり方になっている。

たとえば、課題としてのノート提出で『子どもの個性や学習効果を尺度にせず、一律の基準で扱ったり、事もあろうに教師の好みに合ったものが評価が高くなる』なんてのは、安易さの極みだ。これでは子どもに内発的な畏敬の念など発火しない。むしろ反発や冷笑、人間的な軽蔑を招くだけだ。(通常授業のノートの取り方に対する非合理な介入が問題であって、仮に独立したレポート課題で、教育的価値がある合理的な形式を前もって指定するというなら、むしろ良い教育といえるだろう)

少なくとも、『君は写経レベルでここからここまで書け』『君は何文字、何センテンス以内を目安に抽象度上げてまとめてみろ』みたいな理に適った個別指導を見たことはないね。今では少しは改善されてると思いたいけど、インセンティブとしてそういう『教える実力』が優遇されるシステムじゃないから、まあ無理だろうな。

これって教育アウトカムが受験くらいしかないことから来る構造的なものなんだ。これは教育現場が教育効果や生産性はおろか、主体的な目標設定すらできていないことを示す確たる証拠だと俺は考える。知識や認識の整合的ステップもわからず、教科書の読み上げと黒板の板書を繰り返すだけの授業や、教師の私見や自己満足にまみれた発表型課題は実に罪深いといえる。

ちま「もしかしたら、中には素晴らしい内容の授業もあるかもよ?」

主人「いや、そんな素晴らしい内容なら尚更コンテンツ化すべきだし、そもそもそうした動きがろくにないのがおかしいんだ。記録装置の普及具合や授業の時間数を考えれば、いくら規制があるといってもとても隠しきれないはずなんだ。ほんとになんらかの魅力があるならね。プライバシーや副業規定はあるかもだけど、事実上閉じてしまったままであるという事実がすべてを表しているんじゃないかな」

ちま「それもそうか。大学や予備校や個人の教育コンテンツがあれだけYouTubeとかで上がっているのに、公教育の普段の授業のものは見当たらないもんね」

主人「単純に水準が段違いなんだよ。時間配分も構成も板書もね。
そもそもコンテンツ化できる内容じゃないし、想定してもいない。昨今の感染症騒ぎでオンライン化にすぐ対応できた現場からしてきわめて限られてもいるしな。
その点、経営の死活問題になる民間の習い事との温度差はすごい」

ちま「習い事、ほとんど即対応だったもんね。学校も地域や教師によって凄く対応に差が出てたみたい。ママ友とかに聞く限り」

公教育が伸びない(改善しない)理由は市場性

主人「先に話した習い事との決定的な違いは市場性の有無なんだ。利用する側が提供者を選べること、選ぶために客観的に効果を示したり、説明したりすること。これが日本の公教育には決定的に欠落している。少なくとも親としては、子どもを公教育に関わらせるリスクについて向き合わないとダメだ。とても安心して任せられるような状況ではないんだから。

子どもに集団生活を身につけさせるという目的を完全に逸脱している例も多々ある。冬季の教室で生徒の防寒着着用を認めず、脱ぐよう強いるとかな。こんなの教育論以前の人権侵害だけど、まさか現代でもあるとは思わなかった。
(リンク)

指導レベル云々の前に、生徒児童によるいじめや教師の犯罪行為の報告が絶えないのは由々しき問題だ。その原点は明らかに内発性の観点が抜け落ちて形骸化した規律意識にある。歪んだ聖域的イメージによる治外法権性が小さな綻びをエスカレートさせて、取り返しのつかない結果を招いている。データは暗数も多いだろうから鵜呑みにできないけど、事件化されてる件数だけでも少ないものではない。

そして俺の考えでは、そうした公教育生活の反映が社会の生産性や各人の幸福度の足を引っ張っている。他国と雇用状況や社会保障の手厚さを比較して考えれば、日本の若年者の自殺率の高さは異常といわざるを得ない。まあ若年層がそんなものを気にするのも基本的にはおかしな話だから、これはもう学校生活と実社会のギャップによる絶望感のあらわれと考えて間違いないだろう。

でも教師の多くは今でも『キツい教育現場を頑張って回している』『若年自殺率や幸福度や生産性の低さは教育現場でなく社会、主に経済界の問題だ』という現状認識なんだよ。
たぶん本音の本音でね」

ちま「私は学校好きだったけど、どれも否定できないなあ」

主人「俺も学校そのものは嫌いではなかったけど、うんざりする要素について色々考えたよ。色々自前で判断する機会になったね」

ちま「自主的に帰宅したり、休暇を取ってたんだっけ」

主人「そうそう、友だちから漫画を借りて即帰ったり、給食だけ食べに登校したりもあったな。中学での成績は諦めたから、遅刻も三桁あった。3年の最後には、クラスの皆に胴上げもされた。まあ教育とか教師の要素と関係なく学校生活は楽しかったな。
というか楽しめる範囲で参加した結果、不登校のレベルにも至らなかったということなんだけどね。
(こんなことはとても現状で小中学生に望めることではないけど、必要な観点だね。俺の場合は大人との関わり合いの仕方が別枠でベースにあったから、おかしな教師や学校をおかしいと思えて、関わり方を自分で決められたというのはある。皆と外れても大丈夫なのは、根拠ない自信や信頼感あってのものだし、必要な知識や判断材料は本やらで調達できると知っていたのが大きい)

教師も2種性、4種性を強要されている

ともあれ、今の公教育はたいへき的な観点だと、2種性の側面たる『教師に畏敬の念を持て』と、4種性の側面たる『横並びで逸脱を許さない』という心構えを子どもに持つよう誘導している。それだけでなく、当の教師も機能ベースでおおむね同じような2種性と4種性の側面を要求されるわけ。
もちろん教師それぞれの性格や発火は多様ではあるけれど、日本の公教育で期待される教師らしいふるまいというのは、基本的にそうした歪みがある2種性と4種性の側面に集約されるんだ」

ちま「えっ? そうなの?」

主人「まあ官僚主義的な仕組みということさ。上司や上役、果ては文科省にも頭が上がらないピラミッド構造で、しかも実力主義も働かない年功序列だ。明確な目的がないから減点主義で無難な現状維持がはびこるんだ。
でも上の方でも話したけど、ブラック企業に殉じる2種もいる中で、『より正しく』を求めた結果、逸脱する2種も中にはいるわけ。その違いは向上心だと思う」

ちま「2種的な『より正しくありたい』の姿勢ね」

主人「そして、向上心の対概念は思考停止だ。だから、思考停止して自分から学ばない教師は最悪なんだ。生徒にはテストやらノート提出やら出席やらの学びの態度を期待するのに、教師自身ではまともな本をろくに読んでもいないんじゃないかな。あまつさえテストや受験の結果を無責任に品評したりする。まるで普通の会社で部下が上司や会社の愚痴をいうみたいな感覚でね。そんな、芯がないというか、サラリーマン的な教師は少なくない。というかハッキリいえば多数派だな」

ちま「でも『学ばない』という性質と2種性ってつながらないんだけど……
2種性の核心は規律と恭順なんでしょ? すくなくとも先例を学ばないと話にならないと思うけど」

主人「そう。俺は2種性そのものがだめと言っているわけではないんだ。2種性を形式的なものとだけ捉えて盲信することが問題なんだ。環境変化を受けて認識を更新しない、つまり『新たに学ばない』『吟味や深掘りもしない』というのが問題で、これは『内発性の欠落』による2種性の本質『畏敬の念』をおろそかにした態度なんだ。

まあ、日本の公教育みたいに、生徒側に形式的な2種性を強要するのは教える側からしたら運営上は楽なんだよ。だって、敬うのに理由も根拠もいらないでしょ。そんなの明らかに堕落した権威の暴走だし、見えている子どもにとって教師やシステムの権威が失墜するだけだ。本音では相手にされないし、テイ良くゴマスリの対象にされるだけだろうね。

そんなのは昔からだし、実はこれは教育に限った問題ではなく、典型的な権威や官僚制度の腐敗のプロセスなんだよね。現場は雑務に忙殺させることで支配する。というか、逆らう余力を与えないという仕組みだね。
これは構造的な問題なわけだ。現実に個々の教師の問題であっても、そこだけにフォーカスして全体の解決はできない。総合的なインセンティブの設計が必要で、システムを変えないといけないということになる。俺たち親の立場からしたら、そんなの待っていられないのが現実だ。

教育に限らず、どんな分野だって『年上だから、先生だから』ってだけで敬ってもらえる、フリだけでもしてくれて安定待遇されるなら、よりよい授業や自己成長なんてしないよね。したとしても局所的な自己満足がいいとこだ。
これは問題意識を持つ教師にはキツいと思う。実際、心を病む教師は少なくない」

ちま「心ある先生は退場してしまう過酷な状況なのかあ。まあ、努力してもしなくても得られるものが同じなら、大抵は努力なんてしないよね(ちま母は5種性優位)」

2種性の重要な側面『畏敬の念』。安易に汚したくない概念。

主人「ここで重要になるのは、形式的態度としての従順さでなく、内的に発生する恭順、その正当性の見出し、各人の心の所作に基づく尊重、すなわち内発的な『畏敬の念』の欠如なんだ。これは教える側が『畏敬の念なき恭順』を子どもに求め、しかも畏敬という概念の本義すら知らずに押し進めて形式主義に陥ってしまうという悪循環になっていると説明できる。本来あるべき『畏敬の念』の位置にどんどん空虚な概念が収まってしまう感じだね。

俺はまず、教える側が『畏敬の念』を踏まえた真の2種性という要素の認識からはじめ、自らの内発性に基づく専門性の自覚と実力を持ち、周囲への共有につとめるという方向性になることを願っている。それにこれが本当の意味で『間違いたくない』2種性を正規化したものだと俺は思う。
その認識の重要性は教師だけでなく、リーダーなど人々を率いる責任ある者全員にいえることだ。
(それには、2種性一辺倒ではなく、せめて10種類のたいへきくらいは構造的に踏まえてほしいところだ。必ずしもたいへきでなくても構わないけどね)

ちま「そうだね。『先生』の立場にいる人は教師だけじゃないもんね」

主人「俺が思うに『先生と呼ばれる立場にいる人』は、誰しもまず2種性の要求される対象であるという観点から考える必要がある。そして教師が2種性の本義で自ら学び実践して『畏敬の念』のもとで規律を運用するなら、自然と生徒側に無茶を要求しないし、できなくなる。そうした本義的な規律が自然に生じるはずなんだ。

にもかかわらず、現時点で教師の多くは、生徒から質問や指摘があったときに『そういう考えもあるよね』という柔軟な対応ではなく『むっ』としたり、『口答えするな』となったりする。こうした反応は瞬間に生成する本音だから、子どもは敏感に反応する。

そうした様子を聞いた親や周囲までも『授業中に口を挟むなんて迷惑だ』と同調してくる。安易に『先生は神聖な職業だから、威厳、権威を落とすようなことをするな』とか『先生や授業が尊いのは常識で、疑うようなものじゃない』と追従するのは日本社会全体における2種性と4種性の押しつけのわかりやすい例だね。これは同調圧力だ。
そして発達途上の子どもの自己開示の芽を潰して萎縮させるには十分なんだ。これはたぶん、教師が雑務やイレギュラーに忙殺されることで、教育現場における4種性ベースの繊細な個別対応が早々に無理筋になって、2種性の規律を形式的に当てはめることでその場しのぎしてきた長い積み重ねの歴史の現れというところだろうね」

ちま「あーありそう」

主人「そうとうに込みいってしまったけど、教育問題の構造についての前提理解は不可欠だと思ってね。

公教育の実態というのは人格形成に影響するし、なにより社会的合意の現れた継続的事業なんだ。なんだかんだいってもね。だからこそ土台から誤解してしまう元凶にもなる。長年の生活で印象レベルで刷り込まれてしまうわけだからね。
(個人の幸福追求という観点からは時代遅れでダウンサイドが大きくて機能的には洗脳みたいなものだけど、洗脳扱いしても反発を招くだけでうまくいかない。それに現環境の社会が容認しているから、定義上洗脳というのはおかしい。不寛容のパラドクスを考えると『自由に外れなよ』で済まされる話でもないわけだからね)

個々が学校生活をどう過ごしたかにかかわらず、どうしても2種性を整合的に解釈する上で障害になることがあまりにも多くなるから、労力を割いて説明したよ。
畏敬の念にもとづく内発的な恭順と、外的な同調圧力の違い、なんとなく伝わったかな?」

ちま「まあね。表面的な2種性っぽさと、2種性の本質の違いは、外面的には共通してる部分も多くてごっちゃになるから、今きちんと知れてよかった。
学びや子育てについてのど真ん中の話だったし」

2種性の本編『より正しく』と偶数たいへき まとめ

主人「ここからは具体的な2種の話だけど……」

ちま「やっとこさ本題なのね」

主人「学ぶ側に規律は必要だけど、教える側が規律を形式的に守らせようとするのは違う。という話をしたね。2種性優位の人は規律に従いつつも、上位の側が『規律に値するかどうか』をちゃんと観察している。
なにしろ1種性の裏だからね。甘くはないよ」

ちま「出た!『より正しく』だね!」

主人「そして、一定のラインを超えたら離れていく」

ちま「ほう」

主人「そうなったら評価を覆すことはかなり難しい。
なにしろ内発的畏敬に基づく権威性由来の『正しさの感覚』だからね」

ちま「シャットアウト!? 偶数たいへきは許容量を超えたらシャットアウトする習性でもあるの?
4種も許容量を超えたらシャットアウトするっていってたよね」

主人「そうだね。そのへん、偶数たいへきは奇数たいへきと違う傾向にある。
元来、明確な到達点のイメージと結びつきにくいんだよ。根源的欲求の指向性が現状維持的なものだからね。具体的には以下のような対応だ。

「正しくありたい」1種性に対し、2種性は「間違いたくない」
「好かれたい」3種性に対し、4種性は「嫌われたくない」
「得したい」5種性に対し、6種性は「損したくない」
「勝ちたい」7種性に対し、8種性は「負けたくない」
「こだわりを愛でたい」9種性に対し、0種性は「全部引き受けたい」

こうした具合だからね。奇数種が変化向上を志向するのとは対照的だ。ただ、これは奇数種が優れていて偶数種が劣っているということではないんだ。

いずれのたいへき種別も重要な要素とみなせるし、そうした観点こそが有益になる。現環境などとの相性やその場における序列こそあるけどね。
これは『前に出たがる個体ばかりでは種の繁栄はおぼつかない』ということの裏返しでもある。

種ごとの特性(偶数たいへき )

俺の考えでは、許容量を超えた時のパターンというか、傾向が、たいへきごとの特徴としてある。

2種性は断罪、4種性は遮断、6種性は爆発、8種性は逆走、0種性は完否、ってところだな」

ちま「だいたい字面でわかるけど、逆走と完否ってのは?」

主人「逆走ってのは『そこまでいうならやってやるよ』の精神かな。相手の主張の逆理を力で通す感じだ。センスないね、っていわれてカチンときて、そのままメジャーデビューしてやる、みたいなイメージかな。

完否は無条件の完全否定だな。0種性、博愛の逆転したものだから大変なことだね。なんでもアリですべてを潰しにかかってくるイメージだ。醜くて見るに堪えない作品を抹消したくなるような情動だね。主体と対象が一体になった境地といえる」

ちま「うわーすごい。でも6種性の爆発とは違うの?」

主人「言い方は悪いけど、6種性の爆発は子どものかんしゃくみたいなものだね。ある種の取引の形態といえる。
だから真に要求するものや認める価値を提示されたらわりとすぐ素にかえる傾向にある。まあ現金なんだよ。

繰り返すけど、人間の反応を属人的な印象で説明づけようとすると痛い目を見ることになる。各人に発火の傾向はあるけど、その背景すべてを知ることなんてできない以上、決め打ちにはリスクが生じる。
単純な読み違えもあるし、決めつけを嫌う心理から来る警戒心もある。信頼感や関係性が育つ前に決め打ちを当て過ぎるのは、適切なやり方でない場合が多い。
場合にもよるけど、変化そのものは一瞬でも、それを腑に落とすには時間を要するんだ。

そんなに難しく考えることはない。決めつけにならないような態度を取って、プロセス観察に重みづけすれば良い。
そして、あくまでもこちらが譲れない一線を越えるかどうかだけは注意を払った上でね」

ちま「ほんとに武術の間合いの取り方みたいね」

主人「そのものなんだよ。だから6種性優位の人だから6種性の許容を超えたパターンだけ抑えておけばよいというわけじゃない。

何度もいうけど、皆、どのたいへき種別も内側に持ち合わせているんだ。0種性の発火した怒りか6種性の発火した怒りかの見極めを誤るなんてのはいうまでもなく危険だから、そうした地雷だけは避けたほうが賢明だろう。

特に3種性優位の人だと突発的に発火するから面倒だね。まあ反面、基本的に持続もし難くはあるけれど、食事や色恋、本能的情動に直結した形で印象が記憶されると大変厄介なことになるから注意が必要だ。威力はそこそこでも数多く撒かれた地雷みたいなもので、リソースと精神力を削られる。
(6種性の地雷とはまた違う。この場合『ウルトラ運が悪くない限りヒットしない』という全体の枢機を左右する不確定要素は、兵卒よりも司令官にとって大きなストレスになる)」

ちま「我慢の限界にもパターンがw でもそういう人いるよね」

主人「優位でないたいへき種別でのストレスは、本人が不慣れなこともあって問題が表面化したときには大事になりやすい。
いつもの人物像とかけ離れて見えるわけだから周りも面食らうしな。
その反面、優位であるたいへき種別でのストレスは、本人そのものの人格という感じだけど、それだけに一貫性があって威力が大きいといえる。多くは確信をもってぶつけてくるわけだからね。

いずれにせよ、その瞬間の発火をつかまえること。普段の発火傾向との差分を取ること。
そしてパターンが見えても決めつけないことは重要だ。何度も繰り返すけど」

ちま「その心構えは大事だよね」

1種2種の『より正しく』。1種と2種の違いは?両方持つ人は?

主人「2種性の断罪は字面でもわかりやすいね。単純に『自分は間違っていない。お前は間違っている』という構図だ。

例えば、聖職者なんかで同門の堕落を見て、宗教的確信をもって逸脱して破門されたり独立したりするのは2種性の発火由来のものが多いだろう。
『俺は間違いたくない。だから正しさを引き出したい!』という感じだね。まあ『より正しく』と表現してしまうと1種と区別をしにくいんだけど……

・2種性:正しさを深堀りしたい・引き出したい
・1種性:正しさを積み上げたい・さらにそこからジャンプして上の世界に行きたい

のような違いがある。権威に求める方向性の差といえるかな。
1種性は自分が始祖になりたいという感じで、
2種性は(無形の摂理を含めた)他者に仕えたいという感じなんだ」

ちま「そうなのか…… けっこう明確に違うんだね」

主人「でも、どちらも内的な処理だから、外から見ただけだとわかりにくいところだね。
どちらも本とかはたっくさん読むし」

ちま「それは区別つきにくいね。何かわかりやすい傾向はないの?
イメージ重視の2種優位はフワッとした本を好むみたいな」

主人「目的に応じて、難しい本や網羅した資料を読むのは1種も2種も同じだよ。何せ『より正しく』だからね」

ちま「だろうね。あ、じゃあ、簡単なやつは読まないの?」

主人「もちろん、必要に応じて読むよ。ただ、より詳しくて網羅しているテクストが理解できれば、あえて単純化したものを読もうとは思わないだろう?せいぜいリサーチ目的にチェックするくらいだろうね。
まあ、そんな感じで、実際のところなにを読むかってのはあまり1種性とか2種性とかの問題ではないよ。目的に応じた信頼性ある参考資料そのものが限られていれば特にね。先端技術や科学の最前線とか、マニアックな専門領域とか」

ちま「それもそうか」

主人「大きな違いとしては、読み方の観点が違うんだ。
2種性では肯定的に読む。だから2種性優位の人が懐疑に至るというのは大きな意味を持つことだと思ってほしい。
逆に、1種性では批判的に読む。1種が全面的肯定に至るのも大きな意味を持つ。まあ、めったにないだろう。

ただ、いずれも論理ベースで細かいところまでちゃんと読もうと意図しているわけだから、読解するという視点においては1、2種は気は合うといえるな」

ちま「そうなんだ。じゃあ、1種性と2種性の両方持っている人はどうなるの?」

主人「1種性と2種性を両方持っている人を理解する上で大事なのは、発火の優先度と順番だ。1種が先で2種も持っている場合は、『懐疑的な探求から肯定に至りたい』という意識が強い」

*全組み合わせを示すと・・・

顕在ー潜在ー無意識
1種ー××ー2種
××ー1種ー2種
2種ー××ー1種
××ー2種ー1種
※ 顕在意識と潜在意識が同軸で競合する組み合わせは排除されてる。これが絶妙だね。このあたりの考察は上級編で扱おうと思う。

ちま「批判的に読むけど、肯定したい部分を探すという感じかな?」

主人「そうだね。2種が先で1種も持っている場合は、『肯定から入って細かい識別をしたい』ということになるかな。2種性優位の人にとって『識別』というのは『正しさを引き出す』こととイコールなんだよ。情報の粒度を上げるということの方向性がね」

ちま「2種しか持っていない人は疑わないってこと?」

主人「そうだね。少なくとも『懐疑なんてしたくない』『けしからんことだ』という感覚だと思うよ。逆に1種性優位で2種性をあまり発火しない人は、批判しっぱなしで肯定がない、頑固オヤジのようになる傾向があるだろう」

ちま「ツンデレのデレがない人みたいな感じか」

主人「そうだね。懐疑の裏返しである盲信のパターンも真逆だな。
1種性は懐疑は尽くされたというプロセスを踏まえての盲信。
かたや2種性は『神を疑うな』的な伝統や権威ありきの盲信といえる」

ちま「それはいかにも折り合いがつかなさそう」

主人「そう。同じテキストを参照しても、読解の方向性だけでなく、その捉え方の前提からして真逆なことが多いんだ。
権威性と懐疑的論証は『歴史』や『伝統』の面で合一していて不可分になっていることがほとんどだからね。
淘汰圧を生き残ってきた1種性と2種性の共通点や違いを知ることは、構造的な人間理解につながる。
理屈っぽいのは共通なのに真逆な観点を持つ1種性と2種性でやたらと衝突していたのがもしかしたら緩和されるかもしれない」

ちま「似て非なるものだもんね…… 本人たちからすれば同一視されたくないよね」

2種の美点。本物を学ぶ際に発火させたい要素。

主人「ここからは美点のポイントだ。
2種性は何かを学ぶ時に非常に効果的だ。自分が生徒の立場になるなら、ぜひ優先的に発火させたい要素になる」

ちま「そうなの!?」

主人「そうだよ。特に本物に学ぶ際には重要だ。
素直に学べる、つまり余計な懐疑が挟まらないということは、ある程度の仕上がりになるのが早くなることにつながる。素直でそつがない生徒は指導者に目をかけられる可能性も高いだろうし、基本的に学びの場では歓迎されることが多いから良い循環が期待できる」

ちま「それってすごい。子どもが学ぶときにはぜひ発火してほしい要素だね」

主人「それだけじゃない。素直に取り組むことで、もし自分自身に向いていないとなればそれも早めにわかる。結果として能率的に能力開発ができるだろう」

ちま「うーん。なまじ上手くできてしまうと損切りポイントが見つからないということはない?
上手くできないのに懐疑や否定をしたくなくて延々と続けてしまうとか」

主人「たしかにそうしたしがらみは2種性の懸念ではあるね。だから最初から、手堅く間違いのない、累積的に取り組めるだけの価値があると確信できる対象を優先的に選んで取り組むのが大事だろうね。
応用範囲の広いスキルを複数、仕事に使えるレベルで身につけられるなら、器用貧乏さによる損切りの遅れも生きる上でのメリットになると思うよ」

2種の欠点:疑わない。より正しいと信じて突き詰めるイメージ。

ちま「じゃあ、2種性優位の人の弱点はなんだろう」

主人「2種性優位の人は基本、性善説の人だからけっこう騙される。そして齟齬に葛藤する。心からあっけらかんとできることはあまりない。代わりに状況や権威に転嫁することで、心の底からすべて自分の責任だと思い悩むことは免れることも多いけどね」

ちま「・・・まじか。そうか、2種の人は疑わないんだっけか」

主人「疑う場合ですら、別の理念や権威を信じての疑念ということが多いな。そして信じる概念と現実との板挟みに葛藤するという流れは2種性お定まりのパターンといえる。

結果的に恭順への誘導や教化というかたちで多数をうまく処理できても、逸脱的な負のエピソードに心を痛める傾向は強いといえるだろうね。

2種性の動機が起こした、最悪の事件。校門挾まれ死事件。

主人「たとえば学校の校門で遅刻を取り締まる結果、想定外の事故を起こした事件があるね。
■ 事件名を明記。

大前提として、俺はこの事件を、不適切な教育を代表するような事例というより、2種性の規律感覚が想定外に直面したことに関する事例としてとらえている。
規律はそもそも無難にやっていくための道具だから、やり玉にあがってくるのは極端な事例に偏るという要素を忘れてはいけない。

だからこの件において、教師が悪い。結果責任は免れない。この辺に異論は出ようもない。教育のダウンサイドに不満を持つ俺が件の教師の肩を持つ動機なんて一切ない。

もともと勢いよく校門を閉めるという行為をアホの所業だと断じるのは簡単だし、妥当でもある。
けれど、そうした学校運営はその時点では許容されてきた『伝統』であったから、後知恵で批判するだけではあまり意味をなさないわけだ。そんなの『俺なら別口から入ったね』って強がるのとあまり変わらない。

俺が因果関係を紐解く上で着目すべきポイントとしているのは、規範意識と規律感覚の混同だ。この件でいえば、当該教師が校門取締りに向けた間違った熱意、内的な規範意識の外的な規律運用への転化についてだね。
ほんとうに嫌な言い回しになるけど、適当にゆるくやっていれば、起きなかっただろう事件には違いない。

もちろんその時の気分で適当にバーンと閉めて事件を起こす可能性もあるけど、その辺は純粋に個別の思考力や品性の問題になる。

思考力や品性の担保がない人間が教育に関わる、しかも暴力や物理的な関係性を伴って、というのが根本問題ではあるけど、身も蓋もないのでそれは置いておく。ここでのポイントはそこではないしな」

ちま「規範意識と規律感覚の混同って個人レベルの話じゃないの?」

主人「ポイントは混同の背景の方だね。そちらが本命の構造的な問題で、もはや隠れた要素として維持されてしまっている、現在進行形の課題なんだ。

俺はこれを『共役性にもとづく再現可能性』だと見ている。
共役性とは『入れ替わっても成り立つ』ということで、簡単にいえば『同じような背景がある以上、同じようなことがまだ起き得る状況にある』ことを問題視しているんだ。そもそもの頻度が少ないとか、そういうことではなく、構造的に掘り下げる必要性を感じている。

ここでは『規律の根拠たる権威の完成度を揺るがす大問題であるとみなす意識』というのは教師個人の課題であるわけだけど、同時に『どうしてそのような意識ができて、暴走に至るのか』とりわけ『他者へのいわれのない実害をもたらすまで手入れされなかったのか』という社会的、関係性の課題でもあるんだ。校門の取り締まりは犯罪ではなく日常だったのだからね。

そして学校も校門も、いまでも普通に存在している。人間のあり方は変わり得るのだから、状況次第でまた同じことが起き得ることは否定できない。
真摯に向き合うなら、条件づけの掘り下げは避けられないよ」

ちま「そうか、引き金になる条件が特定できてはじめて実現性ある対処につながるんだね。この場合の条件づけって、どういうもの?」

主人「いわば『規律の根拠たる権威は必要で重んじるべき』というべき本能だ。
それは2種性が重要視する要素と合致する。そして当然ながら、そうした意識を持つ人のほとんどはこんな事件の当事者になるようなことはない。

だから問題が表面化されること自体が少ないし、表面化された問題は例外だと切り捨てられる。結果として、きちんと学ばれないことになる。『その事件は知ってるし、よく学んでる。今こことは状況も人間も違うし、そんな事件は例外的でしょ』とばかりにね。他人事意識なんだよ。
いや、実際他人事ではあるんだけどさ」

ちま「たしかにトカゲの尻尾切りみたいなのはスッキリしないし、誰の得にもならないよね。
でも構造のポイントってなんだろう?」

主人「内なる規範意識を、他者に対する規律の強権として発動させると齟齬が生じる、という点だね。これは、規範意識と規律感覚がもともと別の概念なのに、同じものとして扱うという不整合に起因するものだと俺は考える。もちろん衝突がどういう形で起きるかは様々だ。
人災は起きず、天災クラスのイレギュラーではじめて表面化するケースもあるし、表面化しないで水面下でくすぶっている要素なんて山ほどあるだろう。

いずれにせよ、内面の規範意識が肥大化するほど、規範の写像たる規律の割を食う存在が気にかかってくる。
これは物理の作用反作用の法則みたく『意識高いほど重要性の高い課題になる』というだけのことなんだ。そして意識の高さは外面的な反省の態度とは根本的に違う尺度なのだから、そこには注意が必要になる」

2種の悪徳。

ちま「周囲の理解に対するねじれ方がまさに『意識高い系』っぽいね。
反省した様子を見せるのが上手なのと、ほんとうに反省してるかの本音は別ってことか』

主人「そう。態度と内面は乖離する場合が少なくない。想定外の大ごとになってしまえば尚更だ。
そして、そもそも規律とは『大を活かすために小を殺す』という機能だ。

取り返しのつかない事件を起こしてなお正当化を試みるということは、つねに正当化の準備ができているという心の所作が裏にあるんだ。
そこに垣間見える2種性の本音の闇の部分は、誰にとっても無関係とはいえないな。

で、この事件、じつは加害教師が本を出版している。見所はアマゾンレビューの叩かれ方の方だね。決して冷やかしとはいえない否定的意見がずらりと並んでいる。

ここで俺が強調したいのは、単に加害教師に情緒性ある謝罪を求めるというのでは、それ自体が形式的な規律意識の段階だということだ。情緒的なみそぎという要素もやみくもに否定するものではないけれど、少なくとも規範意識の葛藤とは別物と認識され、明確に区別される必要がある。

件の教師の規範意識は不適切な事件を引き起こした。似たような規範意識と規律運用は世間にあふれている。現に当事者でない俺たちにとって大事なのはそうした冷静な事実認識であり、構造的克服だ。単にスッキリするための情緒的な糾弾は下品だし、内的変性を期待するなら逆効果になることを知るべきだ。それではただ外面を取り繕う方法論だけが発達して、本質から離れた警戒心が支配的になるという負の循環が進むだけなのがオチだ。

それでは未知のリスクを引き受け踏み込む気概を削がせるだけなんだよ。
ノートや授業態度といった体裁ばかり気にかけることで生徒に本質的な学習意欲を失わせるようなものだね。

2種まとめ。臨場感と1種との違い。モーダルチャネルとの関連。

主人「ともあれ、俺としては『規範意識は内なる美徳にとどめ、規律感覚と区別することなしに、構造的克服には至らない。その認識が個々の内面に行き届き、社会に共有される世の中』を願うものだよ」

ちま「それって具体的にどんな状況になるの?」

主人「いまの日本で、餓死があり得ない、粗暴さは歓迎されない、というようなレベルの常識的感覚としての普及だな。多くの人にとって、決まり以前の当たり前の感覚という状況だ。SNS上で理屈抜きに炎上するなんてのは過渡期の現実として興味深くあるな」

ちま「そう考えると必要悪でもあるのね。当事者にはなりたくないものだけど。
そう考えると丁寧さって重要なんだね」

主人「2種性の内的処理の話をまとめると……
・2種性は『間違いたくない』つまり、上位概念から逸脱しない正しさを志向する
・『決まり』『規律』といった概念の区別がキーワード

転じて、抽象化概念の文章化しきれない部分、たとえば『法の精神』とか『神の御心』まで想像し、畏敬する。要するに最大級に尊重したいわけだ。
丁寧な吟味をベースとした解釈や説明は大いに参考になるものだ」

ちま「言わんとしていることを全て読み取ろうとするのか」

主人「そうだね。言語や論理で定式化できる領域をこえた理想的『規範』へのアプローチを基準に、そこから逆算された形式やシステムの妥当な運用たる『規律』に落とし込もうというのが2種性の根源的欲求だ。

規律にうるさく権威を重んじることから、融通がきかないカタブツの印象をもつかもしれないけど、自分の内的世界ではけっこう自由だったりする。
自分が素晴らしいと思うものに対して、4種性と違う意味で細かく臨場感を持って読み取るんだ。理想的な規範への欲求が、イメージを制約の中で遊ばせることを楽しむ力につながっているといえる。

4種性は、気配りと相互理解の理念あってこそのイメージ力発揮という感じだけど、
2種性は理想像の探究という純粋な自己満足を求めて内的世界で遊ぶんだ」

ちま「すごいな。幻聴とか聞こえてきそうだね」

主人「実際、幻聴が聞こえるくらいの臨場感に至るポテンシャルは持っていると思う。
1種も2種も内的世界の探究心が強いけど、
2種性は想念や絵や音、
1種性は言葉や概念寄りかなという印象だ。
使う道具の傾向が違う感じだな。個別事例で例外はいくらもあると思うから、その辺は参考程度にしてくれ」

ちま「1種性と2種性、両方持っている人はどうなるの?」

主人「1種性と2種性のどちらも持っている人はいずれも理解の適性はあると思う。視覚メインの人が聴覚メインの人の感覚を置き換えで理解できる感じだね。
ただ、モーダルチャネル運用の癖というのは、かなり生得的な要素だから、完全に自在に使い分けられる人は少ないだろうね。
モーダルチャネルは無意識で選んでしまうものだから、まあ癖みたいなものだ。

というか、やれるかどうかは『意図的に優位モーダルチャネルを切り替えて遊ぶことにどの程度興味と情熱を持てるか』という問題だろうな。
ヒトの心身は、やれば応えてくれるものだからね。

いずれにせよ、知覚の臨場感がイメージ寄りになるため『さっきこういう人が隣にいたね』と不意にいわれても、『そんなのいたっけ??』と外的世界が見えていないなんてこともままある」

ちま「君は1種と2種持ちだけど、そういうの多いよねー。
前から思ってたけど、そういう特性なのかあ」

主人「まあ、そういうことにしておいてくれw」

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